亀屋町
かめやちよう
中京区堺町通夷川下ル
南北に通る堺町通の両側町で、北は夷川通(旧冷泉小路)。
平安京の条坊では左京二条四坊二保五町の地。
「日本紀略」天延三年(九七五)六月二五日条に「卜定賀茂斎王先朝第十選子内親王也、以陸奥守貞盛二条万里小路宅為潔斎所」とあり、平安時代前期にはこの辺りに平貞盛の邸があり、賀茂斎院の潔斎所とされたことが知れる。「坊目誌」は当町及び六町目に比定しているが確証はない。
鎌倉時代には「百錬抄」承元三年(一二〇九)七月一一日条に「主上行幸権中納言隆衡卿冷泉万里小路第」とあり、また「古今著聞集」第一一に、「仁治三年(一二四二)正月九日、四条天皇十二歳禁中にして崩御の御事あるよしののしりければ(中略)同二〇日の夜御元服後嵯峨やがて内里へ入らせ給ふ、四条大納言隆親卿の家冷泉万里小路の里内裡也」とあるが、「師守記」康永元年(一三四二)七月一日条に、「寛元元年(一二四三)二月廿二日、越中殿申拝賀参内於二条万里小路下車、入東面四足門、皇居冷泉万里小路殿歟、同二年七月廿六日、天皇自権大納言隆親卿冷泉万里小路第遷幸閑院、文永二年(一二六五)九月九日、平座見参、及晩参陣、於二条万里小路下車、入左衛門陣皇居冷泉万里小路・院御所也」とあるから、藤原隆衡・同隆親の第が当町を中心とした方一町にあり(冷泉万里小路殿として)後嵯峨天皇の里内裏、後に同上皇の院御所となったことがわかる。
亀屋町
かめやちよう
上京区葭屋町通出水上ル
南北に通る葭屋町通の両側町で、北は下長者者通(旧鷹司小路)、南は出水通(旧近衛大路)。平安京の条坊では左京一条二坊一保七町の中央以東の地で、官衙町の一つ「使庁」の跡地(拾芥抄)。平安中期以降は鷹司小路堀川小路の西の地。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「亀屋丁」とみえる。寛永一八年以前平安城町並図は「きくや丁」と記す。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「亀屋町 北町南町」とあって南北二町に分れていたが、明治三年(一八七〇)合併された(坊目誌)。なお「坊目誌」はこの時「出水通葭屋町東西俵屋町」(現元福大明神町)北側をも合併したと記すが、前記の「京町鑑」の出水通の項に「堀川西入猪熊西入此二町の間南北竪町へ付ゆへに小名なし」とあり、疑問である。
亀屋町
かめやちよう
東西に通る蛸薬師通(旧四条坊門小路)を挟む両側町。西側を堀川通(旧堀川小路)が通る。
平安京の条坊では、町の北側は左京四条二坊四保一〇町南、南側は左京四条二坊三保一一町北の地。平安中期以降は四条坊門堀川小路の東にあたる。
明応九年(一五〇〇)の「祇園会山鉾次第以鬮定之」(祇園社記)には「八番 かつら山 四条坊門と油小路の間也」とみえるが、今は失われてしまった。「材木屋在所」(祇園社記)には「四条はうもんあふらのこうち 三郎殿」の名がみえ、当町近辺に材木屋があった。
「京雀跡追」(延宝六年刊)によると、天正年間(一五七三―九二)に「極楽院空也堂」が三条櫛笥(現今新在家西町)から当町へ移転してきたという。
亀屋町
かめやまち
[現在地名]武生市南二―三丁目
府中町の南端、北陸街道沿いの町。府中町外、上市村地籍にあり、上市町の南に続く。正徳元年(一七一一)の府中惣絵図に町名がみえる。安永三年(一七七四)の前田家文書に家数七一(武生市史)、嘉永四年(一八五一)の記録では「八十五軒但庄屋歩行共」とある(南条郡誌)。
亀屋町
かめやちよう
南北に通る御幸町通を挟む両側町。北は押小路通、南は現御池通に面する。
平安京の条坊では左京三条四坊四保一五町東側の地。平安中期以降は、押小路東京極大路南西にあたる。町の西側は平安時代、山井三位と号した藤原永頼の邸域にあたる(拾芥抄)。
町名は、寛永一八年(一六四一)以前平安城町並図に「つるや丁」とあるが、寛永一四年洛中絵図・承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図は「亀や丁」とし、以降変化はない。
亀屋町
かめやちよう
東西に通る竹屋町通(旧大炊御門大路)の両側町。町の中央を南北に両替町通が通る。
平安京の条坊では、大炊御門烏丸小路と大炊御門室町小路間の大路上にあたる。
町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「亀や丁」とあり、筆描図系では以降変化はない。一方木版図系では、寛永一八年以前平安城町並図は「ひ物や丁」、寛永版平安城東西南北町並之図は「きよ水町」、寛文五年(一六六五)刊「京雀」は「きつゝけや町」、延宝六年(一六七八)刊「京雀跡追」は「切付や町」とし、元禄九年(一六九六)京大絵図は「清水丁」、正徳・享保間京大絵図は「切付丁」とし、寛保初京大絵図で「亀や丁」となって、以降変化はない。
亀屋町
かめやちよう
上京区油小路通上長者町下ル
南北に通る油小路通(旧油小路)を挟み、町の北は上長者町通(旧土御門大路)。
平安京の条坊では左京一条二坊四保九町の東側と同一六町の西側の地で、平安中期以降は土御門大路油小路南の地。官衙町の「左兵衛町」にあたる(拾芥抄)。中世、応永三二年(一四二五)一一月一〇日の酒屋交名(北野天満宮史料)によれば、この辺りに酒屋があった。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「鶴屋町」とあり、元禄末期洛中絵図で「亀屋丁」と出る。
亀屋町
かめやまち
[現在地名]久留米市城南町
久留米城大手門である亀屋町口御門の南側にあり、町並は東西に広がり、東は両替町。西の京隈小路に接する地に番所が置かれた。瓶屋町とも記され、当初は瓶屋などの陶磁器を扱う商人が居住したものであろう。元和七年(一六二一)当町に法雲寺が建立された(石原家記)。「啓忘録抜萃」に亀屋町とみえ、町別当播磨屋掛に属し、家数二二軒・小間数八八間半。
亀屋町
かめやちよう
中京区釜座通竹屋町下ル
南北に通る釜座通を挟む両側町。町の南側を夷川通(旧冷泉小路)が通る。
平安京の条坊では、左京二条三坊二保三町の地。
町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「亀や町」とあり、筆描図系では寛文後期洛中洛外之絵図に「丹後や丁」、元禄末期洛中絵図には「亀屋丁」とあり、以降変化はない。木版図系では寛永一八年以前平安城町並図に「たんこや町」、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成に「かめや丁」とあり、以降変化はみられない。
亀屋町
かめやちよう
[現在地名]福井市春山一―二丁目
福井城西北外堀外にあり、北は上谷町、東は下江戸町、西は千日町・鍵町。貞享三年(一六八六)の大法後に武家屋敷跡に生れた町。隣町の鶴屋町(鍵町)に対して亀屋町とよばれたらしい。
亀屋町
かめやちよう
下京区仏具屋町通松原下ル
南北に通る若宮通を挟む両側町。
平安京の条坊では、左京六条三坊一保一町中央の地。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図から延宝六年(一六七八)刊「京雀跡追」の頃までの絵図・町鑑類の多くには「鶴屋丁(町)」とみえる。その後、元禄四年(一六九一)京大絵図でも「つるや丁」だが、同末期の洛中絵図には現町名の「亀屋丁」とあり、更に宝永二年(一七〇五)洛中洛外絵図、同五年頃刊の「都すゞめ案内者」以後の多くの絵図・町鑑類では「亀屋丁(町)」と変わっており、ほぼこの前後に現町名に改められた。
亀屋町
かめやちよう
上京区千本通中立売下ル
町の中央を東西に中立売通が通り、南北に千本通が通る。平安京大内裏「大蔵省」の跡地(「拾芥抄」の宮城指図)。
現町名は宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「亀屋町」とみえる(町名由来等は→玉屋町)。
明治維新前は上古京上西陣組の新シ町であった亀屋町八町組に属し、一八軒役を負担。
亀屋町
かめやちよう
下京区高倉通五条上ル
南北に通る高倉通(旧高倉小路)を挟む両側町。
平安京の条坊では、左京六条四坊一保二町東側と同保七町西側の地。鎌倉時代、当町の西半部は万寿禅寺(万寿寺)の寺域であった。
寛永一八年(一六四一)以前平安城町並図・寛文後期洛中洛外之絵図には、ともに「ほねや丁」とあるが、寛永一四年洛中絵図等には「亀屋町」とある。
亀屋町
かめやちよう
鴨川の西側に位置。南側は東西に通る荒神口通。鴨河原は京都七口の一つとして交通の要地だった(→荒神河原)。
宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に、荒神口の「川原町東入北側、亀屋町」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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