日本歴史地名大系 「大磯村」の解説 大磯村おおいそむら 静岡県:榛原郡相良町大磯村[現在地名]相良町片浜(かたはま)法京(ほうきよう)村の北に位置し、村内を南北に田沼(たぬま)街道が通る。東は駿河湾に面し、塩浜がある(遠淡海地志)。天正八年(一五八〇)七月二八日の武田勝頼書状写(小幡文書)に大磯とみえ、武田勝頼は徳川家康が高天神(たかてんじん)城(現大東町)攻撃のため陣取っているとの大磯からの注進により、浦野弾正忠に出陣のため甲斐甲府に参上するよう命じている。文禄二年検地高目録では高一〇三石余。 大磯村おおぞむら 兵庫県:豊岡市大磯村[現在地名]豊岡市大磯・大磯町(おおいそちよう)・塩津町(しおつちよう)・弥栄町(やさかちよう)・三坂町(みさかちよう)・城南町(じようなんちよう)・桜町(さくらまち)円山(まるやま)川の大曲り部西岸に立地。当初、北西部は小尾崎(こおざき)村、南西部は妙楽寺(みようらくじ)村に接したが、豊岡城下町の進展により新(しん)町・京口(きようぐち)町の町屋が形成されて村域は縮小、二分された。元禄一五年(一七〇二)の豊岡城下図(京極家蔵)では、この時点で両断は完了し、豊岡藩組屋敷も両地区に分けて置かれる形となった。領主の変遷は小尾崎村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二三四石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも同高。天明八年(一七八八)の城崎郡明細記(河本家文書)では高二三八石余、小物成米八斗余・桑役銀三〇七匁余・鮭運上銀六〇匁、家数三一・人数一〇六、鎮守は三宝(さんぼう)荒神(現大磯神社)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by