大窪新村(読み)おおくぼしんむら

日本歴史地名大系 「大窪新村」の解説

大窪新村
おおくぼしんむら

[現在地名]城端町大窪

東は信末のぶすえ村・是安これやす村、西は細木新ほそきしん村、西から北へは山田新やまだしん村・大塚新おおづかしん村・梅井新うめいしん(現福光町)。延宝元年(一六七三)の新開で、当初は山田新田のうち。同三年村立てとなり、高二五六石余、免四歩(城端町史)。文政八年(一八二五)太美組、天保一〇年(一八三九)以降山田組に属した。嘉永六年(一八五三)の村鑑帳(菊池家文書)では高二三八石余、免一ツ九歩、定納六四石余、家数三四・人数一九〇(男九九・女九一)、馬三、おもな稼は日用駄賃・苧・布・蚕など。

大窪新村
おおくぼしんむら

[現在地名]立山町大窪

常願寺川右岸の高原野たかはらのに位置。南は野口新のぐちしん村の垣内大石原おおいしはらなど、東は引越手屋ひつこしたや村。伝承では元和四年(一六一八)飛騨国次右衛門・越前国加右衛門によって開かれたというが、正保郷帳に村名はみえない。宝暦一四年(一七六四)には高原野の新開村とされている(越中志徴)。明暦二年(一六五六)の村御印留に村名がみえ、寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高八五石、免三ツ、明暦二年から万治元年(一六五八)までの新田高九石(三箇国高物成帳)。天明四年(一七八四)の高一一九石・銀高二四匁余(「高野用水水下銀仕立覚」杉木家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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