大納村
おおのうむら
[現在地名]和泉村上大納
九頭竜川の支流大納川の中流に位置する。東は鷲鞍岳、北は荒島岳に続く山地、西は三坂峠(深坂峠)を越えて若子(現大野市)に至る。枝村として長崎・大原があった(越前国名蹟考)。慶長六年(一六〇一)より福井藩領、元和九年(一六二三)大野藩領となった。村名は正保郷帳にみえ、畠方のみ三六石であった。文政六年(一八二三)の郷中家数人別仕出帳(「越前宗門帳」所収)によると家数二六(高持一三・水呑一三)・人数一二三。
当村と下大納村は田畑・山林が入組んでおり、争論を繰返している。享保一六年(一七三一)七月には下大納村が定年貢を払って耕作してきた当村の田畑をめぐって争い、当村が大野藩領、下大納村が郡上藩領であることから、双方の大庄屋の立会により解決しているが、その後も争論を繰返している(和泉村史)。
大納村
おおのうむら
[現在地名]串間市大納
都井村の東、都井岬(御崎村)の付根に位置し、東は日向灘に面する。江戸時代は都井郷に所属。日向国覚書によると高二七五石余。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領地覚(隈江家記)、正徳元年(一七一一)の高鍋藩領郷村高辻帳(石井家文書)でも同高。享保二年(一七一七)二月、当村宮ノ浦に水船になった唐船が漂着したため、藩では家老隈江五郎左衛門を当地へ派遣、船を解体して長崎へ海上輸送している(本藩実録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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