大輪田泊・兵庫津(読み)おおわだのとまり・ひようごのつ

日本歴史地名大系 「大輪田泊・兵庫津」の解説

大輪田泊・兵庫津
おおわだのとまり・ひようごのつ

大阪湾北西部、和田わだ岬東側の湾曲部にある港津で、古く大輪田泊・輪田泊といわれ、鎌倉末期以降兵庫津とよばれるようになった。瀬戸内海航路の物資集散地として早くから町場が形成され湊町として繁栄し、兵庫津は近世には山陽道の宿駅の機能も併せ持つ町に発展した。

〔大輪田泊〕

「万葉集」巻六に田辺福麿の作として「浜清く浦うるはしみ神代より千船の泊つる大和田の浜」とある。大和田おおわだ(大和太)の浜は大輪田の泊をさすという説もあり、「行基年譜」に引く天平十三年記には「大和田船息」がみえるが、奈良時代の大輪田泊については詳細は不明。「日本後紀」弘仁三年(八一二)六月五日条に、使いを遣わして大輪田泊を修復させたとある。大輪田泊は瀬戸内海の五ヵ所の重要港津の一として行基が指定したと伝え、延喜一四年(九一四)四月二八日の三善清行意見十二箇条の最終条に、行基は瀬戸内航路の停泊地を設置するにあたって、魚住うおずみ(現明石市)より大輪田泊、大輪田泊より河尻かわじり(現尼崎市)を各一日行程としたとある。しかし地形的には南東の風が強く吹込み、朝夕には逆浪が起こるという難点があった(治承四年二月二〇日「太政官符案」内閣文庫蔵摂津国古文書)。利用度の高い要津であるため、風波で破壊されやすい防波堤はしばしば修築の必要があったとみられ、造大輪田船瀬使が特任されて修理にあたった。弘仁三年の修築工事は同七年にほぼ完了、そこで朝廷では造船瀬使を廃し、以後は破損のつど官船・私船から米・水脚(水夫の労役)を徴収し、摂津国司が泊を管理・修復することとなった(弘仁七年一〇月二一日「太政官符」類聚三代格)。しかし天長八年(八三一)には造大輪田泊使を六年任期とするよう提言しており(同年四月二一日「太政官符」同書)、再び国家の管理下に置いた。嘉祥二年(八四九)には船の運航効率化のため、これまでの水脚を廃して一人一日一升五合の割で役料を徴収し、地元の人夫を雇って修築することとした(同年九月三日「太政官符」同書)。その後も管理方法を模索しながら変更し、仁寿三年(八五三)には風波で破損した船瀬の石椋いしぐらと官舎を修造する場合、小破は毎年修理料田の稲二〇〇束以下をもって国司の監督下で、大破は朝廷の決裁を仰ぐようにした(同年一〇月一一日「太政官符」同書)。寛平九年(八九七)の修築後、風波の度にうける損傷をそのままにしたためついに大破に及び、そのうえ近隣の者たちが材木を盗んだため護岸が崩壊したとして国司に管理強化を命じている(同年九月一五日「太政官符」同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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