改訂新版 世界大百科事典 「大輪田泊」の意味・わかりやすい解説
大輪田泊 (おおわだのとまり)
摂津にあった港。天平年中(729-749)に行基(ぎようき)が開いたと伝える五泊(ごはく)(河尻,大輪田,魚住,韓(から),檉生(むろう))の一つ。のちの兵庫津,今の神戸港の前身。785年(延暦4)に淀川が神崎川に直結され,神崎川河口の河尻が従来の難波津にかわって繁栄しはじめると,それまでの武庫(むこ)津にかわって河尻から1日航程の大輪田泊が栄えはじめる。西方から突出する和田岬によって南西風と潮流から守られる大輪田は,反面,南東風に弱いため防波堤を築いて防ぐ必要があった。812年(弘仁3)の修築以後,何度も修築の記事がみえるのは築堤が激浪で破壊されたためで,造大輪田船瀬使または造大輪田泊使が特任されて修理にあたり,工終われば国司にその管理維持を任せた。831年(天長8)には造大輪田泊使の任期を6年と定めて中央政府の直轄にしたが,修理料の徴収法は時代により変化し,853年(仁寿3)には所管を摂津国に復した。平清盛は大輪田泊を九州の博多にかわる日宋貿易の基地にしようと企て,ほど近い福原荘に山荘をかまえて本格的改修に着手,1173年(承安3)には経島(きようのしま)を築き,80年(治承4)には諸国雑物運上船の梶取水主に夫役を命じて石椋(いしくら)を修造し,また河内,摂津,和泉および山陽・南海道諸国より田1丁,畠2丁ごとに各1人の夫役を徴して大々的な改修に着手した。その結果,宋船が入港できるようになったが,平氏の没落後まもなく荒廃し,俊乗房重源(ちようげん)がその修理を願うほどになっていた。鎌倉時代になると大輪田泊の名がすたれ,兵庫津,兵庫島の名で呼ばれるようになる。
→兵庫
執筆者:石田 善人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報