大館町(読み)おおだてまち

日本歴史地名大系 「大館町」の解説

大館町
おおだてまち

大館盆地の中央部、東から延びる舌状台地上に位置し、北側を長木ながき川が、南側を米代川がそれぞれ西流する。地名の由来は大規模な館のあったことによるという。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「千九拾九石四斗八升五合 大館村」とみえる。独鈷とつこ(現北秋田郡比内町)本拠を置き比内ひない地方を支配した浅利則頼の子勝頼は、戦国末期に大館、扇田おうぎだ(現比内町)に城を築いたといわれ(伊頭園茶話)、慶長二年(一五九七)の浅利頼平領内村数覚書(秋田家文書)にも「大たて村 田畠 家弐百余 我等屋しき廻」とみえ、当時における比内最大の戸数をもつ。大館には慶長初年頃、秋田実季の弟実泰が居城したというが(柞山峯之嵐)、同七年佐竹氏の秋田入封に伴い、佐竹家臣赤坂朝光は秋田勝蔵より城を受け取り、同一三年には佐竹氏一族の小場義成がそれと交代、同一五年に城代となって幕末までその子孫が守護した。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に大館町一千五六六石とある。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では大館村と記され、当高一千一六四石余で、一八ヵ村の親郷であった。比内地方の中心であるだけに江戸期を通じ発展を遂げ、幕末の「郷村史略」には高二千一〇六石七斗余、家居六五三戸、人三千一四四口で、枝郷を含めない大館だけの戸数は四五八戸であった。枝郷として餅田もちだ池内いけない下代野しもだいの柄沢からさわ岩神いわがみ宮袋みやぶくろ二ッ屋ふたつや上代野かみだいの芦田子あしだこ小釈迦内こしやかないの一〇ヵ村がみえる。

大館町の組立ては宝暦九年(一七五九)の大館城絵図(栗盛文庫蔵)によれば、本丸を囲んで堀があり、本丸と南の二の丸を囲んで侍町が配置される。侍町である内町うちまちを囲むように羽州街道が通り、街道に沿って商人町である外町とまちが形成されている。羽州街道入口に寺が配置され寺町的様相を呈す。

〔内町〕

所預所在の町には、所預配下の家中と本藩の給人という所属の違う武士階級があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報