朝日日本歴史人物事典 「太田資正」の解説
太田資正
生年:大永2(1522)
戦国・安土桃山時代の武将。道灌の孫資頼の次男。美濃守。入道して道誉,三楽斎と称した。天文15(1546)年の主家扇谷上杉氏滅亡後も北条氏に反抗。同年10月,病死した兄資時の跡を継いで武蔵岩槻城主となった。永禄4(1561)年,長尾景虎(上杉謙信)が北条氏を小田原城に攻めた際はその主力として活躍したが,同7年の第2次国府台の戦で敗れ,同年7月長子氏資が北条氏に帰属し,岩槻城を失う。このころ入道。のち次子梶原政景と共に佐竹義重に属し,常陸片野城に拠って武蔵奪回を窺う。天正18(1590)年には豊臣秀吉の小田原攻めに参陣。生涯,北条氏に抵抗した扇谷上杉氏の遺臣。<参考文献>前島康彦『太田氏の研究』
(佐脇栄智)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報