中国演劇(読み)ちゅうごくえんげき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国演劇」の意味・わかりやすい解説

中国演劇
ちゅうごくえんげき

中国の演劇は日本では京劇がよく知られているが、長い歴史と広い国土を誇る中国にはそのほかにも300を超える数多くの地方伝統演劇の劇種がある。伝統演劇の劇種は、おもに言語(方言)とメロディーによって区別される。また、日本の新劇に相当する話劇も上演されている。中国の伝統演劇は俳優の歌唱を軸に、台詞(せりふ)、しぐさ、立回りを組み合わせて歌劇の形態をとるのが主流であり、日本の伝統演劇をはじめとする東洋の演劇に共通する要素が多いといえよう。

[傳田 章・瀬戸 宏]

歴史

戯曲の起源

中国においても演劇的なものの起源は原始時代の歌舞である。それは氏族社会の狩猟や農耕の儀式として始まったが、階級社会に入ると帝王、貴族のための純粋の娯楽となっていった。西周の末年(前771)ごろには貴族に隷属して娯楽の提供を専業とする優(ゆう)が出現する。今日の俳優の起源である。漢代(前202~後220)にはすでに『東海黄公(とうかいこうこう)』のように術士と白虎(びゃっこ)の格闘という物語をもった、民間の武術競技から発展した角觝戯(かくていぎ)が現れ、三国六朝(りくちょう)にはこれと結合して『大面(だいめん)(蘭陵王(らんりょうおう))』『踏揺娘(とうようじょう)』などの歌舞ができる。まだ歌舞や角觝(相撲)が主で、筋を語るのは従であるが、総合化への一歩前進がみられる。一方、優の演技が様式化すると、参軍、蒼鶻(そうこつ)の二つの役柄でおもに対話で滑稽(こっけい)と風刺を演ずる参軍戯(さんぐんぎ)が生まれた。日本の正倉院の伎楽面には6世紀の『荊楚歳時記(けいそさいじき)』が記す長江中流域方面の追儺(ついな)のそれに合致するものがある。周漢以来のもろもろの大衆芸能や見せ物芸の百戯(ひゃくぎ)も、6、7世紀に朝鮮を通って日本に伝わり、散楽としてわが国の芸能の発展に本質的な影響を与えた。歌舞はやや遅れて7世紀後半から伝来し、上述の3曲はそれぞれ舞楽『陵王(りょうおう)』『抜頭(ばとう)』『胡飲酒(こんじゅ)』として今日まで伝承されている。

 唐代も安史(あんし)の乱(755~763)を過ぎると貴族文芸の絶対支配に揺らぎがみえるようになる。宮廷教坊(きょうぼう)の芸人たちも市民のなかに出て芸を売るようになり、寺院で俗講(ぞくこう)とともに諸芸能が演じられた。この廟会(びょうかい)が宮廷で育った芸術を市民の趣味に沿ったものに改造する場となり、市民の芸術の洗練にも作用した。宋(そう)代に入ると商業規模は著しく拡大して、芸人たちはもはや教坊を離れて生活ができるようになり、北宋(960~1127)の都汴京(べんけい)(開封(かいほうカイフォン))にはそれぞれの芸能を見せる劇場である勾欄(こうらん)の建ち並ぶ盛り場「瓦舎(がしゃ)」ができる。そこでは人形劇傀儡戯(かいらいぎ)や角觝競技も演じられたが、「雑劇(ざつげき)」が各種芸能のうちもっとも重要なものとなった。

 この宋雑劇(そうざつげき)は、参軍戯より複雑化しており、役柄が増え、記録された演目からみると、市井の下層民も登場する世態を写した滑稽劇が多いようである。宋朝南渡後、北に残留した芸人が金(1115~1234)の都燕山(えんざん)(北京(ペキン))に集まって北方派の雑劇、金(きん)の「院本(いんぽん)」を形成する。役柄などは宋雑劇と基本的に同じだが、一定の順序で並べられる演目が内容的に連係するものとなっているなど、複数の幕を並べる完全な演劇に近づいている。

[傳田 章・瀬戸 宏]

北雑劇と南戯

12世紀に入って、宋雑劇および各種の演芸が南北に分かれて分流を始め、北雑劇(ほくざつげき)と南戯(なんぎ)がそれぞれに北方と南方で形成を開始するが、北方系の音楽を基調とするものを総称して「北曲」、南方系のそれを「南曲」ともいう。まず北方では金代末葉に院本のなかに雑劇という新しい戯曲形式が出現し、これが前身となって1200年ごろに男女の主役、末(まつ)と旦(たん)の主演の形が山西中南部一帯におこった。元(1271~1368)の大都(だいと)(北京)建都以後、それが北雑劇盛行の中心となり、関漢卿(かんかんけい)、馬致遠(ばちえん)、白樸(はくぼく)ら多数の作家が出て、王実甫(おうじっぽ)の『西廂記(せいそうき)』のような長編も生まれ、中国文学の歴史に初めての劇文学「元曲(げんきょく)」の花を咲かせた。モンゴルという異民族支配のもとでの一時的な儒教イデオロギー支配の弛緩(しかん)や、作家たちの多くが下層の知識人で比較的庶民層に近い意識をもっていたことなどがあって、この時期の作品のもつ幅広いリアリズムは後の明(みん)・清(しん)の伝奇(でんき)も超えられない一面をもっている。南宋(なんそう)(1127~1279)滅亡後、運河の水路交通が回復すると、元曲は急速に江南の都市にも流布し、まもなく杭州(こうしゅう/ハンチョウ)がその中心となった。

 一方、南戯は12世紀末、初め温州地方の民間演芸として比較的簡単な脚本で演じられていた温州雑劇が発達したもので、大都の北雑劇にほぼ並行して南宋の都臨安(りんあん)(杭州)で盛行し始める。元統一後は北雑劇と交流しつつ競争的に発展し、元末明初に至って北雑劇が衰退に向かうとかわって勢いを増し、高明(こうめい)の『琵琶記(びわき)』をはじめ『荊釵記(けいさき)』『白兎記(はくとき)』『拝月亭(幽閨記(ゆうけいき))』『殺狗記(さっくき)』など新作が数多くできて、次の「南曲」の時代の基礎を固めた。

[傳田 章・瀬戸 宏]

崑山腔と弋陽諸腔の劇

明代(1368~1644)に入って北雑劇(元曲)は急速に衰微する。かわって南戯(南曲)がいっそうの発展をみせ、各地に広がってそれぞれの土地にあった声腔(せいこう)(曲調)の劇種を形成していく。崑山(こんざん)、海塩(かいえん)、余姚(よよう)、弋陽(よくよう)が四大声腔となるが、嘉靖(かせい)年間(1522~1566)に入ると、「弋陽腔(よくようこう)」が各地に伝わって新しい声腔の劇種を生み、民間芸術の成果を吸収して滾調(こんちょう)を創造する。一方、「崑山腔(こんざんこう)」(崑曲(こんきょく))は嘉靖・隆慶(りゅうけい)年間(1522~1572)に魏良輔(ぎりょうほ)らが重要な改革を進め、梁辰魚(りょうしんぎょ)(1519―1591)の『浣紗記(かんさき)』が出ると、都市の舞台で崑山腔が急速に興隆し、海塩腔(かいえんこう)を駆逐して覇を唱える。ここに至って崑、弋両腔がかつての北雑劇の地位に完全にとってかわり、以後清(しん)初まで南戯から発展進化した「伝奇」形式の脚本創作が空前の繁栄の時期を迎えた。作品が大量に刊行され、曲律や劇論など理論著作の面でもかつてない新しい成果が生まれた。これら明曲(みんきょく)の代表作に湯顕祖(とうけんそ)の『牡丹亭還魂記(ぼたんていかんこんき)』がある。

[傳田 章・瀬戸 宏]

清代地方劇

崑山腔と弋陽諸腔劇盛行の後を継いで、18世紀初めから19世紀なかばまで民間地方劇の興起と盛行の時期となる。明末からの弋陽諸腔の民間での流布、発展を受け継ぎ、崑山腔の芸術成果をも吸収して既存の戯曲形式を革新して創造を加えたもので、伝奇のメロディーの異なる曲を連ねる(曲牌連套(きょくはいれんとう))形式を突破した、リズムの変化(板式(ばんしき)変化)を主とする形式にその特徴がある。康煕(こうき)年間(1662~1722)後期以来、全国各地に新興の地方劇である「乱弾(らんだん)」諸腔が出現する。商品経済の発展に伴い各地の商人組織が大・中都市につくった地域・業種別の会館が、地方劇団の職業公演の重要な方式の一つとなった。

 ついで乾隆(けんりゅう)年間(1736~1795)末葉から、この「花部(かぶ)」乱弾諸腔と士大夫(したいふ)層が正統とする「雅部(がぶ)」崑曲の激しい競争の局面となり、北京の劇壇で前後して高腔(こうこう)、秦腔(しんこう)、徽調(きちょう)が雅部と覇を競う。北京でのこれら花部の勝利は全国の形勢に影響を与え、各地の地方劇種の発展のなかで五大声腔系統が形成された。とりわけ梆子(ほうし)、皮黄(ひこう)両系統がもっとも発達して、崑山腔と主導地位を交替し、乱弾優勢、戯曲芸術のよりいっそうの大衆化、豊富多彩化の状況をつくりだした。そして嘉慶(かけい)・道光(どうこう)年間(1796~1850)、各声腔の交流と合流によって各地に相次いで新しい総合性の大型劇種が形成されていくが、京劇(きょうげき)もその一つで、徽調と漢調(かんちょう)の北京での結合が基礎となって、19世紀なかばに形成される。

[傳田 章・瀬戸 宏]

近現代

1840年のアヘン戦争以後、崑曲俳優の産出地である江南地方が荒廃し、崑曲は廃れた。京劇は清朝朝廷の保護を受け、まもなく宮廷演劇の権威により全国に広がった。上海(シャンハイ)には1867年に伝わった。川劇(せんげき)、粤劇(えつげき)などの地方劇もこの時期に本格的に形成された。

 清末には、清朝改革運動に失敗して日本に逃れた梁啓超(りょうけいちょう/リヤンチーチャオ)らの影響で、「観戯記」(1903)などの演劇改良論が生まれた。

 新興の貿易港である上海では、その経済力により商業演劇が盛んになった。商業演劇はその性格上新奇な劇を求めたため、1890年ごろより同時代の衣装を用いてその時代の話を演じる京劇である時装新戯(じそうしんぎ)が上演され始めた。学生による演劇上演も、上海で20世紀初頭から始まった。演劇改良論はこれらの動きに浸透し、汪笑儂(おうしょうのう/ワンシィヤオノン)(1858―1918)など政治問題を劇化する京劇俳優も現れた。1908年には夏月潤(かげつじゅん/シヤユエルン)(1878―1931)らによって新舞台がつくられ、時装新戯の拠点となった。

 東京で新派の影響を受けた中国人留学生によって結成された春柳社が、1907年6月に『アンクル・トムの小屋』を脚色した『黒奴籲天録(こくどゆてんろく)』を上演した。その反響が上海に伝わり、学生演劇や政治運動と結び付いて不徹底な台詞劇である文明戯(早期話劇)が辛亥革命(しんがいかくめい)前後に生まれた。文明戯は1914年ごろ最盛期を迎え京劇を圧倒する勢いを示したが、まもなく商業主義に絡め取られて衰退した。1915年創刊の『新青年』はイプセンを熱狂的に紹介するとともに、伝統演劇を強く否定した。この新文化運動の影響で話劇が生まれた。1924年5月上海戯劇協社が上演した洪深(こうしん/ホンシェン)(1894―1955)演出『若奥様の扇』(ワイルド作『ウィンダミア卿(きょう)夫人の扇』翻案)が話劇成立の指標とされている。田漢(でんかん/ティエンハン)などの劇作家も生まれた。こうして、中国では京劇など伝統演劇と西洋近代劇の影響を受けて成立した話劇の演劇二重構造が生じた。

 1920年代後半、話劇はマルクス主義の影響を受け、左翼戯劇家連盟などのプロレタリア演劇が盛んになったが、国民党の弾圧により1935年には方向転換して広範な演劇人と団結する国防演劇が提唱された。この時期には、最初の職業話劇団である中国旅行劇団が生まれ、曹禺(そうぐう/ツァオユー)『雷雨』や夏衍(かえん/シヤイエン)『上海の屋根の下』などの名作も初演されている。京劇では、梅蘭芳(メイランファン)、周信芳(しゅうしんほう/ジョウシンファン)、程硯秋(ていけんしゅう/チョンイエンチウ)、尚小雲(しょうしょううん/シヤンシィアオウィン)などの名優が現れた。

 1937年日中戦争の開始とともに、演劇隊が各地を巡回し抗日宣伝劇を上演した。話劇の中心は臨時首都の重慶(じゅうけい/チョンチン)に移った。戦争で映画制作が途絶えたこともあり、重慶の話劇は大いに栄え郭沫若(かくまつじゃく/クオモールオ)の『屈原(くつげん)』など優れた作品が続出し黄金時代とよばれた。上海の租界地区は日本の侵攻を免れ孤島とよばれ、ここでも話劇が栄え于伶(うれい/ウィーリン)(1907―1997)の『夜の上海』などが上演された。1941年太平洋戦争勃発(ぼっぱつ)で孤島が消滅して話劇上演が困難になり、演劇人の一部は伝統演劇に流入して、越劇(えつげき)、滬劇(こげき)などの形成を促した。共産党支配地区の延安では、1942年の延安文芸座談会での毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)講話以後労働者・農民・兵士に奉仕する演劇が強調され、1943年には『兄妹開荒(けいまいかいこう)』などの秧歌劇(おうかげき)が、1945年には新歌劇『白毛女(はくもうじょ)』がつくられた。延安では京劇改革も始まり、『逼(せま)られて梁山(りょうざん)に上がる』などの新編歴史劇がつくられた。

 中華人民共和国建国(1949)後は、まず伝統演劇改革が強調された。その基本方針は文化部が1951年5月5日に出した「戯曲改革工作についての指示」に示されている。演目の整理や劇団封建遺制の除去が行われ、『活捉(かっそく)』など一部の演目が猥雑(わいざつ)などの理由で上演を禁止された。話劇は、北京人民芸術劇院など国立劇団の創設や中央・上海戯劇学院の設立が行われ、正規化・専門化が進み、スタニスラフスキー・システムが大いに学習された。しかし演劇とくに話劇はリアリズムの名のもとに政治への奉仕が強調され、優れた作品は1958年上演の老舎(ろうしゃ/ラオショー)作、焦菊隠(しょうきくいん/ジャオジィウイン)(1905―1975)演出『茶館』を例外としてほとんど生まれなかった。京劇など伝統演劇は、伝統演目、新編歴史劇、現代劇の三者併存の方針がとられたが、1964年以降は現代劇以外の上演は許されなくなった。

 この傾向は1966年からの文化大革命で頂点に達し、京劇は『智取威虎山』『紅灯記』など共産党の政治闘争に取材した革命現代京劇が革命模範劇に指定され、ほかの地方劇もその上演を強制された。話劇もその独自性が否定された。

 1976年の文革終結以後、話劇は文革の後遺症などの社会問題を積極的に取り上げ、大いに観客の歓迎を受けた。古典京劇も、1978年以後復活した。しかし、文革直後の政治的興奮の沈静化とテレビの普及によって、話劇、伝統演劇を問わず観客は1980年代に入って激減し演劇の危機が生じた。話劇では、この状況を克服するため、錦雲(きんうん/ジンウィン)(1938― )作『犬だんなの涅槃(ねはん)』など個性をもった人物を描き話劇の本質に立ち返ろうとする傾向と、高行健(こうこうけん/ガオシンヂエン)『バス停』など話劇という演劇形式自体の克服を目ざす実験演劇の二つの新しい動きが生まれた。実験演劇には西洋前衛演劇の影響もみられる。小劇場演劇の開始や演出家の重視も始まり、実験演劇と写実系演劇の双方に成果をあげた林兆華(りんちょうか/リンジャオフア)(1936― )などの演出家が現れた。ミラー作『セールスマンの死』、ベケット作『ゴドーを待ちながら』などさまざまな外国演劇が翻訳上演された。

 1990年代に入ると市場経済化の進展のなかで私的な自立演劇集団が生まれ、孟京輝(もうけいき/モンジンフイ)(1965― )、牟森(ぼうしん/モウセン)(1963― )などの演出家が出現した。劇団体制改革も進み、北京では1999年ごろから観客がふたたび演劇に戻り始めたが、優れた劇作家の欠乏など不安定要素はまだ克服しきれていない。

 台湾では、1949年以後国民党政府によって、京劇は国劇の名で政府の保護を受け、話劇は反共抗俄劇(はんきょうこうがげき)とよばれる政治宣伝劇が長く行われた。1980年の呉静吉(ごせいきつ/ウージンジー)(1935― )演出『荷珠新配(かじゅしんぱい)』以後、小劇場演劇が盛んになり頼声川(らいせいせん/ライションチュアン)(1954― )などの演出家が現れた。1990年代に入って、中国大陸との交流が進んでいる。香港(ホンコン)では、1949年以降文化砂漠とよばれる芸術不振状況が長く続いたが、香港の経済成長に伴い1977年には公立劇団の香港話劇団がつくられ、1992年上演の杜国威(とこくい/ドゥーグォウェイ)作、古天農(こてんのう/グーティエンノン)演出『春とのデート』などが歓迎を受けた。1980年代以降は実験演劇も盛んに上演されている。

[瀬戸 宏]

劇場・舞台

後漢の張衡(ちょうこう)の『西京賦(せいけいのふ)』にみえる長安の平楽(へいらく)は常設の角觝戯劇場広場の最初の記録で、皇帝の行幸にはテント張りの座席がつくられた。演技台の建築は、上客用の小屋掛け客席の出現よりのち、唐代に入ってからのことのようで、敦煌(とんこう)壁画『浄土変(じょうどへん)』では台の周囲に低い欄干をつけているが、この形は宋代の「露台(ろだい)」、汴京(べんけい)や臨安の「勾欄(こうらん)」を経て近代まで受け継がれる。およそ11世紀の末には、それまでの観客が四方を囲んでいた形から、一方を閉じて舞台裏の後台(こうだい)をつくり、演技をする前台(ぜんだい)との間を幕などで仕切ってその左右に俳優の登退場口の鬼門道(きもんどう)をあけるものに移行する。元の杜善夫(とぜんふ)の散曲『荘家不識勾欄(いなかもののしばいしらず)』が勾欄のようすを活写しておもしろい。都市の勾欄より早く、農村には廟(びょう)祭用の屋根付きの「舞亭(ぶてい)」ができ、やがてそれが演劇のための「廟台(びょうだい)」に発展する。明・清の劇場、舞台は基本的には宋・元の形態の延長であるが、廟台、個人の邸宅や宮廷の舞台など質・量ともに前代をはるかにしのぐ発展をみせる。都市の常打ち劇場としての勾欄は明代には衰微するが、かわって酒館、茶園などの名でフロアで芝居を見せる「戯園(ぎえん)」の形が現れ、清代に入るとそれが照明設備などを備えた舞台を設けるようになる。この飲食と観劇とが分離されるのは、清末西欧型の近代的な劇場の誕生以後のことで、一方に開いた西欧型の額縁(がくぶち)型舞台は、1908年上海で日本・新富座に学んでつくられた「新舞台」が初めである。宋・元より清末までの800年間、演劇の舞台は三方に開いた形が主流であったが、それは中国の伝統演劇に本来的に合致した形態であった。新舞台以後、旧来の劇場はしだいに廃れ、西欧式劇場が主流になった。中華人民共和国建国以後は、話劇の専門劇場である首都劇場(1956)などが各地で続々と建設された。中国の経済成長に伴い、1990年代には大劇場・中劇場・小劇場の3劇場を備えた上海大劇院(1998)など最新式の劇場も出現している。台湾でも、演劇・音楽の各種劇場を備えた国立中正文化中心(1987)がある。

[傳田 章・瀬戸 宏]

中国演劇の特徴

王国維(おうこくい)が戯曲と総称したように、中国の伝統演劇は音楽と切り離すことはできない。しかしそれはまた、西洋オペラのように音楽的要素が絶対優位にたって純一化したものではなく、「唱(しょう)」(うた)、「念(ねん)」(せりふ)、「做(さ)」(しぐさ)、「打(だ)」(たちまわり)をあわせもち、来源としては歌舞、滑稽戯(こっけいぎ)、説唱の融合した総合性の度合いの高いものであり、これが第一の特徴である。

 第二の特徴は、現実との距離の比較的大きい仮想性である。西欧演劇の三一致(さんいっち)の法則とは異なり、舞台は固定されない自由な流動する空間と時間をもつ。舞台を1回りすれば十万八千里、更鼓(こうこ)の音で夜が明ける。登場人物がいつ、どこといえば、舞台はその時、その空間となるのである。貧弱な物質的条件の簡略な演出から出発して、中国演劇の発展がその後写実の方向に向かわなかったのは、外見の迫真としての「形(けい)」よりも、雰囲気としての「神(しん)」に対象の本質をとらえようとする美学伝統とも関係するだろう。

 第三の特徴は様式性である。戸や窓の開けたて、乗馬乗船など一つ一つの動作は基本的に固定された型にのっとって演じられる。これは生活動作の美化、舞踊化であり、演技にリズムをもたらす。この様式化は、脚本形式から始まって、生(せい)(立役)、旦(たん)(女方)、浄(じょう)(豪傑、敵(かたき)役)、丑(ちゅう)(道化)、末(まつ)(脇役)などにはっきり分かれる役柄、音楽声腔、独特の臉譜(れんぷ)という隈取(くまどり)のメイキャップから扮装(ふんそう)まですべてに及んでおり、誇張、装飾的変形によってより美しい独特の色彩が生み出される。これら中国伝統演劇の特徴は写意と総称される。1920年代に話劇が生まれて以降は、伝統演劇とスタニスラフスキー・システムなど写実形式に基づく話劇が併存しているが、両者の交流も行われそれぞれの演劇に新しい要素をもたらしている。

[傳田 章・瀬戸 宏]

『村田烏江著『支那劇と梅蘭芳』(1919・玄文社)』『波多野乾一著『支那劇と其名優』(1925・新作社)』『青木正兒著『支那近世戲曲史』(1930・弘文堂)』『青木正兒著『元人雜劇序説』(1937・弘文堂)』『安藤徳器著『京劇入門』(1939・日本公論社)』『波多野乾一著『支那劇大観』(1940・大東出版社)』『吉川幸次郎著『元雑劇研究』(1948・岩波書店)』『辛島驍著『中国の新劇』(1948・昌平堂)』『河竹繁俊ほか著『京劇』(1956・淡路書房)』『竹内良男・塚本助太郎・升屋治三郎著『京劇手帳』(1956・三一書房)』『朝日新聞社編・刊『京劇読本』(1956)』『青木正児編『中国古典文学全集33 戯曲集』(1959・平凡社)』『八木沢元著『明代劇作家研究』(1959・講談社)』『尾崎宏次・木下順二編『古い国新しい芸術――訪中日本新劇団の記録』(1961・筑摩書房)』『田中謙二編『中国古典文学大系52・53 戯曲集』(1970・平凡社)』『岩城秀夫著『中国戯曲演劇研究』(1973・創文社)』『朝日新聞社編・刊『造反する芸術』(1972)』『波多野太郎著『中國文學史研究――小説戯曲論考』(1974・桜楓社)』『池田大伍訳、田中謙二補注『元曲五種』(1975・平凡社)』『岩田直二・日笠世志久・諸井条次編『中国の演劇 文革以後』(1979・田畑書店)』『杉浦康平・和田純・松森務編、黎波解説『京劇百花』(1980・平凡社)』『田仲一成著『中国祭祀演劇研究』(1981・東京大学出版会)』『田仲一成著『中国の宗族と演劇――華南宗族社会における祭祀組織・儀礼および演劇の相関構造』(1985・東京大学出版会)』『岩城秀夫著『中国古典劇の研究』(1986・創文社)』『田仲一成著『中国郷村祭祀研究――地方劇の環境』(1989・東京大学出版会)』『松原剛著『現代中国演劇考』(1991・新評論)』『瀬戸宏著『中国の同時代演劇』(1991・好文出版)』『田中謙二博士頌寿記念論集刊行会編『中國古典戲曲論集――田中謙二博士頌壽記念』(1991・汲古書院)』『田仲一成著『中国巫系演劇研究』(1993・東京大学出版会)』『話劇人社中国現代戯曲集編集委員会編『中国現代戯曲集』1集~4集(1994~2001・晩成書房)』『樋泉克夫著『京劇と中国人』(1995・新潮社)』『田仲一成著『中国演劇史』(1998・東京大学出版会)』『趙暁群・向田和弘著『京劇鑑賞完全マニュアル』(1998・好文出版)』『伊藤茂著『上海の舞台』(1998・翠書房)』『金海南著『水戸黄門「漫遊」考』(1999・新人物往来社)』『瀬戸宏著『中国演劇の二十世紀――中国話劇史概況』(1999・東方書店)』『魯大鳴著『京劇入門』(2000・音楽之友社)』『田仲一成著『明清の戯曲――江南宗族社会の表象』(2000・創文社)』『牧陽一・松浦恆雄・川田進著『中国のプロパガンダ芸術――毛沢東様式に見る革命の記憶』(2000・岩波書店)』『根ヶ山徹著『明清戯曲演劇史論序説――湯顕祖「牡丹亭還魂記」研究』(2001・創文社)』『小松謙著『中國古典演劇研究』(2001・汲古書院)』『加藤徹著『京劇――「政治の国」の俳優群像』(2002・中央公論新社)』『魯大鳴著『京劇への招待』(2002・小学館)』『徐慕雲著『中国戯劇史』(1938・世界書局)』『陶君起編著『京劇劇目初探』(1963・中国戯劇出版社)』『趙聡著『中国大陸的戯曲改革1942―1967』(1969・香港中文大学)』『上海芸術研究所・中国戯劇家協会上海分会編『中国戯曲曲芸詞典』(1981・上海辞書出版社)』『『中国大百科全書・戯曲曲芸』(1983・中国大百科全書出版社)』『呉若・賈亦棣著『中国話劇史』(1985・台湾・行政院文化建設委員会)』『閻折梧編『中国現代話劇教育史稿』(1986・華東師範大学出版社)』『陳白塵・董健主編『中国現代戯劇史稿』(1989・中国戯劇出版社)』『曾白融主編『京劇劇目辞典』(1989・中国戯劇出版社)』『『中国大百科全書・戯劇』(1989・中国大百科全書出版社)』『葛一虹編『中国話劇通史』(1990・文化芸術出版社)』『柏彬著『中国話劇史稿』(1991・上海翻訳出版公司)』『張庚・郭漢城著『中国戯曲通史』第2版(1992・中国戯曲出版社)』『田本相主編『中国現代比較戯劇史』(1993・文化芸術出版社)』『田本相・焦尚志著『中国話劇史研究概述』(1993・天津古籍出版社)』『馬森著『西潮下的中国現代戯劇』(1994・台湾・書林出版有限公司)』『廖奔著『中国戯劇図史』(1996・河南教育出版社)』『北京市芸術研究所・上海芸術研究所編『中国京劇史』(1999・中国戯劇出版社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「中国演劇」の意味・わかりやすい解説

中国演劇 (ちゅうごくえんげき)

演劇の起源が古代の巫覡(ふげき)による宗教的な歌舞にある点において,中国もまた例外ではない。その集団的歌舞のようすは,《詩経》や《楚辞》のなかの芸能詩によってうかがい知ることができる。一方,春秋戦国時代(前770-前221)の宮廷には,〈倡優〉とよばれる道化師がいて,歌舞に滑稽をまじえて王侯貴族を楽しませることを職掌とした。楚の荘王に仕えた優孟,秦の始皇帝に仕えた優旃(ゆうせん)などがそれで,彼らにはいわば後世の役者俳優の原型ともいうべきものを見ることができよう。漢代の宮廷には〈散楽〉〈百戯〉とよばれる,歌舞や曲芸,奇術,格闘技等をも含む諸演芸が流行したが,歌舞がさらに進歩して簡単なストーリーをもつようになったのは6世紀,六朝の末ころであった。たとえば,一武人の勇猛さを描く〈代面〉,虎退治の筋をもつ〈撥頭〉,酒乱の夫をもつ妻の嘆きを演ずる〈踏謡娘〉等の楽舞が行われたが,当時西域方面から輸入された外国のそれの刺激によるところが大きい。

唐代にいたって歌舞楽曲はいっそう華やかな展開をみせ,玄宗皇帝(在位712-756)は梨園においてみずから楽団の指導をしたり,教坊(宮廷の楽舞施設)を設立して大いにこれを奨励した。この時期にはまた〈参軍戯〉と称する滑稽劇があらわれた。主役の〈参軍〉と脇役の〈蒼鶻(そうこつ)〉の二つの役柄による,歌唱を伴う風刺まじりの滑稽問答といったたぐいのもので,古代の倡優による芸能の系統を引き,もっぱら宮廷内に行われて即興性の強いものだったらしい。この参軍戯の流れがのちに民間におよんでさらに成長した姿をみせたのが10世紀,宋代になって現れた〈雑劇〉であった。役柄も4人から6人ぐらいにふえ,北宋の首都の汴京(べんけい)(開封)あるいは南宋の首都臨安(杭州)では,人形劇や影絵芝居,また歌物語,講釈,落語,曲芸等々,さまざまな芸能とともに〈勾欄(こうらん)〉とよばれる演芸場で盛んに演じられた。このとき北方の金治下においては,雑劇が〈院本〉の名のもとに行われていたが,それらの中には茶番狂言の域を脱して一貫した故事(物語)を演ずる本格的な演劇として成長していたことをうかがわせるものが含まれている。

13世紀,モンゴル民族の元が金を滅ぼしてのち,首都の大都(北京)を中心にして新形態の歌劇が流行し始めた。これが元の雑劇で,元朝を代表する文学でもあるところから〈元曲〉ともよばれる。この時期に急激な発展をとげたのは,すでにさまざまな演芸文化が十分成長していたという基盤があり,さらにそのうえに,異民族支配の圧政や科挙廃止によって不遇をかこつ多くの文人たちの才能が,この新興の演劇に向かって注がれたこと,またモンゴル人もこうしたわかりやすい演劇を保護したこと,などによるとされる。劇の基本的要素は,唱(うた)・白(せりふ)・科(しぐさ)の三つであるが,あくまでも歌唱中心に演じられ,幕も背景もなく小道具類しか使わない簡素な舞台では,演技は多く約束ごとにより,独白や傍白がふんだんに用いられている。役柄は,生(男役)・旦(女役)・浄(悪役)・丑(道化役)の四つを柱にして,さらにそれらが細分化されて複雑になり,役柄によっては隈取(くまどり)することも行われた。一編の戯曲は,四つの折(幕)から成り,おのおのの折は十数曲の小唄をつらねた組唄から構成されていて,全歌曲を担当するのは男性の主役(正末)か女性の主役(正旦)のどちらかひとりに限られることを原則とした。これらのきびしい制約は,逆に作品の構成を緊密にし質を高めるうえで有効にはたらき,多くのすぐれた作品を生んだ。

 関漢卿の《竇娥冤(とうがえん)》《救風塵》,馬致遠の《漢宮秋》,白樸の《梧桐雨》,鄭徳輝の《倩女離魂》などはとくに名高く,この4人を〈元曲四大家〉といい,さらに雑劇中の白眉として幅広い人気をもつ《西廂記》の作者である王実甫,および喬吉を加えて〈六大家〉とする。元の鍾嗣成(しようしせい)の《録鬼簿》によれば,当時雑劇作者はおよそ150名,作品数は優に450を上回るが,うち今日に伝存するのは約150種である。内容は,恋愛物,歴史物,裁判物,民間の説話に取材したもの等々,たいへん幅広く題材が求められており,しかもそこに登場してくるさまざまなタイプの人物群が,総じて生き生きとした実在感を発散していることは,この演劇のもつすぐれた特徴の一つとして見のがすことができない。なお,雑劇の最盛期は作者が北方出身者によって占められていた前期にあり,およそ1300年ごろが一つのピークに達した時期と目されるが,後期には中心地が南方へ移ってゆき,同時に作者も南方人によって占められるようになって,しだいに模倣的な作品が目だつようになり,生新ではつらつとした精神が薄れて,かつてのたくましく生き生きとした描写力を失ってしまうのである。
雑劇

14世紀中ごろより,ようやく従来の面目を一新し活力を得てきたのが,宋以来南方の地に行われていた〈南戯〉(〈戯文〉ともいい,のちには〈伝奇〉といった)であった。元末・明初のころには,高明によって名作《琵琶記》が書かれ,ほぼ同時期には《荆釵(けいさ)記》《白兎(はくと)記》《幽閨記》《殺狗記》のいわゆる〈四大作〉が出て,にわかに脚光を浴びるようになり,雑劇にかわって主座の地位をしめるにいたった。南戯は雑劇に比べて制約の枠がずっとゆるやかで,〈折〉に相当する〈齣(せき)〉の数には制限がなく,多くは30齣から40齣,あるいは50齣をこえるものもある。また1齣中の歌曲の構成法や押韻法もはるかに自由で,登場人物は役柄に関係なく誰でもうたうことができた。こうした形態による巧みな構成で,才子佳人劇としての方向を決定づけ〈南戯の祖〉とよばれたのが《琵琶記》であり,作者の高明は至正年間(1341-68)の進士であった。南戯の作者は元雑劇の作者と対照的で,多くの文人官僚が詩文をつくる余技として筆をそめたために,作品も著しく文人趣味に堕し貴族化した。元雑劇にみられたような,素朴な民衆生活に取材した作品や,庶民感情に根ざすはつらつとした精神は失われ,かわって歴史上の著名な人物故事を扱って,理想的な一対の〈才子佳人〉の悲歓離合・再会団円のさまを描こうとし,表現はもっぱら典雅に傾いて,詞藻の美を追求する傾向を深めてゆく。

 嘉靖年間(1522-66)の初め,蘇州崑山地方の〈崑腔(崑曲)〉が魏良輔によって大改良されるや,その清柔優美なメロディは文人の好尚にすこぶるかない,従来の海塩腔,弋陽(よくよう)腔,余姚(よよう)腔等をおさえてはやり出し,これを用いて作られた梁辰魚の《浣紗記》により,決定的な流行をみるようになった。続く万暦年間(1573-1619)にもっとも傑出した作家が湯顕祖で,彼の代表作《還魂記》は南戯の最高傑作とされ,典雅艶麗な文辞と巧みな構成とを得て,曲折波瀾にとんだ甘美な才子佳人劇の一極致を描いた。また同時期には音律にくわしい沈璟(しんえい)ほか多くの作者が輩出し,南戯の全盛期をむかえるにいたった。しかしながらそれらの作品の多くは,実際に舞台にのせて効果のあがる演劇の台本たらんとするよりも,まず文学作品として鑑賞されることの方に力点がおかれ,せりふをも含めて美文化の傾向が著しい。しかも多くの作者たちは,結局この長編の形式を十分生かしきれず,ともすると冗長散漫な作品を生むことにもなった。こうした趨勢のなかで,とくに注目される作家が《笠翁十種曲》と呼ばれる10種の戯曲をつくった李漁である。彼は従来の曲辞偏重主義を排し,あくまでも上演されておもしろい芝居づくりを目ざして,一般通俗のレベルから戯曲本来のあるべきすがたをとらえたのだった。

その後の南戯は,洪昇の《長生殿》,孔尚任の《桃花扇》の二大作を掉尾の作品として,以後は衰微の一途をたどる。すなわち18世紀乾隆年間には,従来〈雅部〉とよばれて正統視されてきた崑曲にかわって,〈花部〉として軽視されていた他の曲調による地方劇種が台頭してきた。まず1779年(乾隆44)四川出身の女形魏長生が〈秦腔〉を北京にもたらし,続いて安徽省の女形高朗亭が〈二黄調〉をもって入京。また秦腔が湖北に伝わって南方化した〈西皮〉とよばれる腔調は,のちに二黄とともに同じ劇団で併用されるようになり,〈皮黄戯〉すなわち〈京劇〉の基礎がここに確立した。それはだれにもわかりやすい歌詞で魅力にとんだ旋律だったうえ,咸豊・同治から光緒年間(1851-1908)にかけて輩出した多くの名優たちの創意くふうにより著しい発達をとげ,京劇の黄金時代を現出した。

新中国になり京劇部門の最高機関として中国戯曲研究院が設立され,梅蘭芳(ばいらんほう)を院長に京劇の改革整理が大々的に進められ,また同時に崑曲および他の地方劇種に対しても保護育成政策がとられてきた。しかし1964年ころよりいわゆる文化大革命期に入り,300余の劇種,1000におよぶ伝統劇目が舞台から追い出されてしまう。この間演じられたのは《紅灯記》《智取威虎山》《白毛女》等八つの模範劇(様板戯)だけであったが,77年より旧劇の古典物が続々と復活し始めている。

 一方,中国における新劇(話劇)は,留日学生らの結成した春柳社が,1907年東京で《椿姫》や《アンクル・トムの小屋》を上演したのに始まるとされる。五・四運動(1919)を機にイプセンをはじめとするヨーロッパの戯曲が,盛んに翻訳上演された。また1930年には中国左翼劇団聯盟が結成され,田漢,夏衍,陽翰笙らが指導に当たり,抗日戦争中は延安解放区では魯迅芸術学院が開設され指導的役割を果たした。49年新中国成立後は,文化部組織下の中国戯劇家協会の指導のもとに,新劇は人民に奉仕しかつこれを教育する方向を明確にし,全国各地区の新劇団がそれぞれ活発な運動を展開した。例えば52年曹禺を院長に設立された北京人民芸術劇院では,老舎の《竜鬚溝(りゆうぜんこう)》《茶館》,田漢の《関漢卿》,郭沫若の《屈原》《蔡文姫》,曹禺の《雷雨》《日の出》など著名作家の作品上演がとくに盛んであった。文革期には,それらの活動がほとんど停止し手痛い打撃をうけたが,79年には中国建国30周年祝賀のコンクールが催され,《楊開慧》《西安事変》《彼岸》《王昭君》等々数多くの新作がいっせいに上演されるなど,10余年にわたる空白を埋めるべく活発な新しい動きを見せている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中国演劇」の意味・わかりやすい解説

中国演劇
ちゅうごくえんげき

中国古典劇の歴史は古く,その起源は古代の巫覡 (ふげき) の歌舞にまでさかのぼる。春秋時代,歌舞専門の「優」が現れ,漢代に「百伎」と結びついて演劇の形式をそなえてきた。唐代には宮廷内の梨園の俳優がもっぱら『代面』『撥頭』『踏揺娘』などの歌舞劇を演じた。また参軍と蒼鶻 (そうこつ) という2つの役柄による掛合の滑稽劇「参軍戯」に,せりふ劇の芽生えがみられる。次の宋・金代になると,「参軍戯」は,「雑劇」や「院本」として発展し,この頃,歌唱とせりふを具備した歌劇的形態が整えられた。元代になると,本格的戯曲が登場した。「元曲」「元雑劇」と呼ばれ,関漢卿,馬致遠,王実甫らの作品は,いまも中国戯曲史上最高峰に位置している。元末明初には,幕数や歌唱に制約のある北曲に代って南曲が台頭し,明の中葉,魏良輔が「崑曲」を創始すると,その繊細優雅な曲調は一世を風靡した。雅部として全盛をきわめた「崑曲」も次第に「花部」 (地方劇) に圧倒され,18世紀末,四大徽班の入京を境にして,「京劇」 (皮黄戯) の天下に移っていった。同時代に大成期を迎えた中国伝統劇の叙事的,象徴的表現様式は,京劇によって集大成されたといってよく,その独特な演劇的価値は広く世界の認めるところである。解放後,新しい社会主義体制のなかで,封建色濃い古典劇の改革が叫ばれ,人民大衆のための新しい演劇運動が起った。話劇 (新劇) の歴史は,1907年当時の留学生が東京で設立した劇団「春柳社」による「文明戯」から始るが,文学革命を経て急速に発展し,抗日運動中に頂点に達した。歌劇『白毛女』はこの時期に延安の魯迅芸術学院で創作されたものである。

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