日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロードス島」の意味・わかりやすい解説
ロードス島
ろーどすとう
Ródhos
エーゲ海南東部、ギリシア領最東部に位置するドデカネス諸島中最大の島。Rhodosとも綴(つづ)る。面積1398平方キロメートル、人口約10万。北端の中心都市ロードス(人口5万3709、2001)はドデカネス県の県都。灌漑(かんがい)設備が普及し、比較的降水量も多く、エーゲ海諸島のなかでは例外的に植生が豊富である。気候のよい美しい島として海外からも観光・保養客を集める。東岸にあるリンドスのアクロポリス、ロードス市内のヨハネ騎士団の砦(とりで)など遺跡も多い。
[真下とも子]
歴史
定住の最古期はミケーネ時代にさかのぼるが、紀元前10世紀ごろドーリス系ギリシア人が入ってヤリソスIalysos、カメイロスKameiros、リンドスLindosの3ポリス(都市国家)が並立した。植民時代の動きは活発で、小アジア南岸やシチリア方面に植民した。デロス同盟には3市とも加盟したが、前411年離反した。前408年3市は統合して島の北端に一つのポリスをつくりロードスを名のる。同市が脚光を浴びるのはヘレニズム時代で、デメトリオス1世の攻囲(ために彼は「ポリオルケーテース(攻城者)」の異名を得た)を耐え抜き、それを記念して市神ヘリオス(太陽)の青銅コロッソス(巨像)を建てたが、これは古代に七不思議の一つに数えられた(前227/226年に倒壊)。詩人アポロニオスが長期に滞在し、トロヤの神官とされる神話中の人物ラオコーンの像も当市で発見された。地中海貿易の一中心として繁栄をほしいままにし、エーゲ海一の海軍力をも擁した。海運隆昌(りゅうしょう)の名残(なごり)はその海商法にみられ、ビザンティン帝国時代まで国際法なみに襲用された。共同海損の観念もすでにある。ローマがデロスを自由港にしたため(前167)殷賑(いんしん)を奪われ、ローマ治下に推移する。中世以降近代まではビザンティン帝国領、ヨハネ騎士団領、オスマン帝国(トルコ)領、イタリア領(1912~1946)を経て、第二次世界大戦後ギリシアに帰属した。
[金澤良樹]