日本歴史地名大系 「姫路城跡」の解説
姫路城跡
ひめじじようあと
姫路市街地の中心部にある標高約四六メートルの独立丘陵
〔姫路城の前身〕
最初の築城者については赤松円心説や赤松貞範説がある。元亀(一五七〇―七三)頃の赤松家伝袖ノ記(智恵袋)に「正慶元年円心子息張軍評定、姫路縄張極メ小寺ヲサシヲキ摩耶ヘ出張」とあり、赤松円心(則村)の姫山縄張説のもとになっている。また天正四年(一五七六)の播磨府中めぐり(同書)に「貞和二年赤松貞範此山に構槨を建、姫山の城と名ク」とある。これは
播州諸城交替連綿之記(姫路市立城内図書館蔵)によると、貞範は「姫路城主之最初也」で、四年間在住したのち貞和五年(一三四九)
応仁の乱が起こり、それまでに勢力を回復しつつあった赤松政則は、山名宗全から領国を奪回するため細川勝元方に属した。土着大名の利もあり比較的簡単に西播磨を取戻した政則は、応仁元年(一四六七)一一月に姫路城を修造して居城としたが、文明元年(一四六九)に播磨・備前・美作三ヵ国の守護を拝領した頃
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報