本多忠政(読み)ほんだ ただまさ

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本多忠政」の解説

本多忠政 ほんだ-ただまさ

1575-1631 織豊-江戸時代前期の武将,大名
天正(てんしょう)3年生まれ。本多忠勝長男徳川家康につかえ,関ケ原戦いの際は徳川秀忠にしたがい信濃(しなの)(長野県)上田城攻撃。慶長15年伊勢(いせ)(三重県)桑名藩主本多家2代となる。大坂冬・夏の陣に勇戦し,元和(げんな)3年播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩主本多家第1次初代,15万石に転じ,姫路城を修築した。寛永8年8月10日死去。57歳。通称は平八郎,美濃守。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の本多忠政の言及

【明石藩】より

…1617年(元和3)小笠原忠真10万石が入封。翌年幕命を受け,夫人の父姫路藩本多忠政が縄張りして赤松山に平山城を築き,10町から成る城下町も建設された。32年(寛永9)豊前国小倉に転封,領主は翌年松平康直,39年大久保忠職(ただもと),49年(慶安2)松平忠国(各7万石)と代わった。…

【飾磨津】より

…09年には城の外堀から南へ飾磨入江に達する運河(三左衛門堀)を通じようとしたが失敗した。15年(元和1)本多忠政の代に船場川が改修されて,以後城下から飾磨御蔵まで舟運によって蔵米が下されるようになった。入江はなお水深が浅く,小舟の出入りしかできなかったが,1808年(文化5)藩の木綿専売が施行され,国産会所の設立,飾磨津からの江戸積みが開始され,その必要から1815‐23年(文化12‐文政6)入江の浚渫(しゆんせつ)と護岸工事がなされた。…

※「本多忠政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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