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本多忠政 ほんだ ただまさ

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美術人名辞典の解説

本多忠政

江戸前期の譜代大名。三河国生。本多忠勝の男。徳川家康に仕え、天正18年小田原攻めに初陣。父忠勝とともに岩槻城を攻め軍功をあらわす。慶長3年従五位下美濃守に叙任、同15年桑名十万石を継ぐ。元和3年播磨国姫路に転封、翌4年姫路城を修築した。寛永8年(1631)歿、58才。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

本多忠政 ほんだ-ただまさ

1575-1631 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
天正(てんしょう)3年生まれ。本多忠勝の長男。徳川家康につかえ,関ケ原の戦いの際は徳川秀忠にしたがい信濃(しなの)(長野県)上田城を攻撃。慶長15年伊勢(いせ)(三重県)桑名藩主本多家2代となる。大坂冬・夏の陣に勇戦し,元和(げんな)3年播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩主本多家第1次初代,15万石に転じ,姫路城を修築した。寛永8年8月10日死去。57歳。通称は平八郎,美濃守。

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朝日日本歴史人物事典の解説

本多忠政

没年:寛永8.8.10(1631.9.6)
生年:天正3(1575)
江戸前期の大名。三河国(愛知県)生まれ。通称平八郎,美濃守。本多平八郎忠勝と阿知和右衛門某の娘の嫡男。妻は徳川家康の嫡男信康の娘,初陣は天正18(1590)年の小田原攻めで,父忠勝と共に岩槻城を攻め破り軍功を現す。関ケ原の戦では本多家の軍団の主要部分を率いて徳川秀忠に従い中山道を進み,上田城を攻めた。慶長15(1610)年父の遺領桑名10万石を襲封。大坂冬の陣,夏の陣にも勇戦。元和3(1617)年,15万石に加増して播磨国姫路に転封。寛永8(1631)年秀忠病むとの報に姫路を発したが,中途で病を得,江戸に到着した8月10日に没する。猛将にして国を守り家を保つ道を知る智者で,その死は秀忠,家光はじめ重臣に惜しまれた。

(藤實久美子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の本多忠政の言及

【明石藩】より

…1617年(元和3)小笠原忠真10万石が入封。翌年幕命を受け,夫人の父姫路藩本多忠政が縄張りして赤松山に平山城を築き,10町から成る城下町も建設された。32年(寛永9)豊前国小倉に転封,領主は翌年松平康直,39年大久保忠職(ただもと),49年(慶安2)松平忠国(各7万石)と代わった。…

【飾磨津】より

…09年には城の外堀から南へ飾磨入江に達する運河(三左衛門堀)を通じようとしたが失敗した。15年(元和1)本多忠政の代に船場川が改修されて,以後城下から飾磨御蔵まで舟運によって蔵米が下されるようになった。入江はなお水深が浅く,小舟の出入りしかできなかったが,1808年(文化5)藩の木綿専売が施行され,国産会所の設立,飾磨津からの江戸積みが開始され,その必要から1815‐23年(文化12‐文政6)入江の浚渫(しゆんせつ)と護岸工事がなされた。…

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