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赤松則祐 あかまつそくゆう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

赤松則祐
あかまつそくゆう

[生]応長1(1311)/正和1(1312)
[没]建徳2=応安4(1371).11.29. 京都
南北朝時代,播磨,備前守護。則村の3男。初め比叡山に登り,権律師となったが,武略に志し,元弘2=正慶1 (1332) 年後醍醐天皇の皇子護良親王に従って討幕に参加,次いで父則村にすすめ,建武政府成立に尽力した。足利尊氏が建武政府にそむくと,これに従った。父に次いで正平6=観応2 (51) 年4月兄範資が死去すると,家督を継ぎ,播磨守護を相承,のち備前,摂津守護を兼ね,赤松氏隆盛の基をつくった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

赤松則祐 あかまつ-のりすけ

1311-1372* 鎌倉-南北朝時代の武将。
応長元年生まれ。赤松則村の3男。元弘(げんこう)の乱では護良(もりよし)親王にしたがい討幕にくわわる。建武(けんむ)の新政後は足利尊氏に属し,観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)で一時南朝方につくが,ふたたび尊氏方にもどり,播磨(はりま)(兵庫県)・備前(岡山県)守護となった。禅をこのみ,備前に宝林寺を建立した(のち播磨にうつす)。応安4=建徳2年11月29日死去。61歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

赤松則祐

没年:応安4/建徳2.11.29(1372.1.5)
生年:応長1(1311)
南北朝時代の武将。則村の3男。播磨・摂津・備前守護。中津河殿と呼ばれる。叡山で護良親王に近仕し,後醍醐天皇の討幕計画に端を発する元弘の乱が起こると親王と共に吉野に移る。その後播磨に戻って父や兄範資・貞範と挙兵,足利高氏(尊氏)と共に六波羅を攻め落とした。建武2(1335)年,尊氏が建武政権に反するとこれに同調し,翌年春,九州に走った尊氏のもとに赴いて再上洛を促している。観応1/正平5(1350)年に父,翌年に兄範資が相次いで死去すると,赤松氏の惣領となり播磨守護に任じられた。当時は観応の擾乱の最中に当たり,一時は赤松宮を奉じて南朝に近づいたがまもなく離反,再び尊氏・義詮父子に従って足利直冬を担ぐ山名時氏ら山陰の南朝方と戦った。また康安1/正平16年,南朝方が京都を制圧すると,当時4歳だった足利義満を播磨白旗城で保護し,以後長く義満の信頼を得た。このとき,幼い義満のために家臣によって演じられた田舎風流は,のち「赤松囃子」として恒例化した。貞治1/正平17年に摂津守護,貞治4/正平20年,備前守護を兼帯,さらに応安3/建徳1(1370)年には禅律方頭人に任じられている。また播磨揖保郡に城山城を築き,山麓の越部に守護館を置いた。以降ここが赤松氏の本拠となる。赤松氏の播磨支配は則祐によって基礎が固められたといってよい。また禅にも傾倒し,特に父と同様雪村友梅に深く帰依,彼を開山として備前新田荘に宝林寺を建てた(のち播磨赤松村に移建)。京都西洞院二条の邸で病死した。<参考文献>高坂好『赤松円心・則村』

(榎原雅治)

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世界大百科事典 第2版の解説

あかまつそくゆう【赤松則祐】

1311‐71(応長1‐建徳2∥応安4)
南北朝時代の武将。則村の三男。比叡山にのぼり,天台座主尊雲法親王(護良(もりよし)親王)に近侍す。建武政権の成立,足利尊氏による幕府の成立に力を尽くす。1350年(正平5∥観応1)に則村,翌年兄範資が死没したあと赤松氏惣領となり,播磨の守護に任ぜらる。摂津守護職は範資の子息光範が継ぐが,のち分割されて則祐も有馬郡を管轄。尊氏・義詮,直義,南朝の3者抗争のなかでは,一時期故護良親王の若宮を奉じて南朝側に属すが,義詮側に復帰して重用され,4歳の春王(義満)を66年(正平21∥貞治5)まで5年間播磨白旗城に養育す。

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大辞林 第三版の解説

あかまつのりすけ【赤松則祐】

1311~1371) 南北朝時代の武将。元弘の乱で護良親王に従い挙兵、のち足利尊氏に従う。家督を継ぎ播磨・備前の守護。

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世界大百科事典内の赤松則祐の言及

【赤松則祐】より

…南北朝時代の武将。則村の三男。比叡山にのぼり,天台座主の尊雲法親王(護良(もりよし)親王)に近侍す。建武政権の成立,足利尊氏による幕府の成立に力を尽くす。1350年(正平5∥観応1)に則村,翌年兄範資が死没したあと赤松氏惣領となり,播磨の守護に任ぜらる。摂津守護職は範資の子息光範が継ぐが,のち分割されて則祐も有馬郡を管轄。尊氏・義詮,直義,南朝の3者抗争のなかでは,一時期故護良親王の若宮を奉じて南朝側に属すが,義詮側に復帰して重用され,4歳の春王(義満)を66年(正平21∥貞治5)まで5年間播磨白旗城に養育す。…

※「赤松則祐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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