赤松則祐(読み)あかまつのりすけ

精選版 日本国語大辞典 「赤松則祐」の意味・読み・例文・類語

あかまつ‐のりすけ【赤松則祐】

  1. 南北朝中期の武将則村の子。播磨備前守護。出家して、帥律師妙善といった。元弘の乱で護良親王に従ったが、のち、そむいて足利尊氏につく。法名宝林寺自天妙善。正和三~応安四=建徳二年(一三一四‐七一

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改訂新版 世界大百科事典 「赤松則祐」の意味・わかりやすい解説

赤松則祐 (あかまつそくゆう)
生没年:1311-71(応長1-建徳2・応安4)

南北朝時代の武将。則村の三男比叡山にのぼり,天台座主の尊雲法親王(護良(もりよし)親王)に近侍す。建武政権の成立,足利尊氏による幕府の成立に力を尽くす。1350年(正平5・観応1)に則村,翌年兄範資が死没したあと赤松氏惣領となり,播磨の守護に任ぜらる。摂津守護職は範資の子息光範が継ぐが,のち分割されて則祐も有馬郡を管轄。尊氏・義詮,直義,南朝の3者抗争のなかでは,一時期故護良親王の若宮を奉じて南朝側に属すが,義詮側に復帰して重用され,4歳の春王(義満)を66年(正平21・貞治5)まで5年間播磨白旗城に養育す。備前守護,幕府の禅律方頭人となる。播磨では城山揖保郡)に築城し,宇野,吉田氏ら一族を守護代に任ず。妻は佐々木高氏(道誉)の女。禅僧との交流も深く,大徳寺第2世徹翁義亨らに学び,また帰依した雪村友梅を勧請開山として宝林寺を建立。京都西洞院邸に没す。諡号(しごう)は宝林寺殿自天妙善。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「赤松則祐」の意味・わかりやすい解説

赤松則祐(あかまつそくゆう)
あかまつそくゆう
(1311―1371)

南北朝時代の武将。則村(のりむら)の三男。1350年(正平5・観応1)に則村、翌1351年兄範資(のりすけ)の死没後、赤松氏惣領(そうりょう)になる。播磨(はりま)国守護職、のち摂津国有馬(ありま)郡を管轄。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)の過程では、一時期南朝側に属すが、足利義詮(あしかがよしあきら)側に復帰して活躍し、備前(びぜん)国守護職に任ぜられ、幕府の禅律方頭人になる。播磨守護代には一族の宇野氏、吉田氏、備前には浦上(うらがみ)氏を配置する。妻は佐々木導誉の女(むすめ)。禅僧との交流も深く、雪村友梅(せっそんゆうばい)を勧請開山(かんじょうかいざん)として宝林寺を建立した。諡号(しごう)は宝林寺殿自天妙善。

[岸田裕之]


赤松則祐(あかまつのりすけ)
あかまつのりすけ

赤松則祐

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「赤松則祐」の意味・わかりやすい解説

赤松則祐
あかまつそくゆう

[生]応長1(1311)/正和1(1312)
[没]建徳2=応安4(1371).11.29. 京都
南北朝時代,播磨,備前守護。則村の3男。初め比叡山に登り,権律師となったが,武略に志し,元弘2=正慶1 (1332) 年後醍醐天皇の皇子護良親王に従って討幕に参加,次いで父則村にすすめ,建武政府成立に尽力した。足利尊氏が建武政府にそむくと,これに従った。父に次いで正平6=観応2 (51) 年4月兄範資が死去すると,家督を継ぎ,播磨守護を相承,のち備前,摂津守護を兼ね,赤松氏隆盛の基をつくった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「赤松則祐」の解説

赤松則祐 あかまつ-のりすけ

1311-1372* 鎌倉-南北朝時代の武将。
応長元年生まれ。赤松則村の3男。元弘(げんこう)の乱では護良(もりよし)親王にしたがい討幕にくわわる。建武(けんむ)の新政後は足利尊氏に属し,観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)で一時南朝方につくが,ふたたび尊氏方にもどり,播磨(はりま)(兵庫県)・備前(岡山県)守護となった。禅をこのみ,備前に宝林寺を建立した(のち播磨にうつす)。応安4=建徳2年11月29日死去。61歳。

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世界大百科事典(旧版)内の赤松則祐の言及

【赤松則祐】より

…南北朝時代の武将。則村の三男。比叡山にのぼり,天台座主の尊雲法親王(護良(もりよし)親王)に近侍す。建武政権の成立,足利尊氏による幕府の成立に力を尽くす。1350年(正平5∥観応1)に則村,翌年兄範資が死没したあと赤松氏惣領となり,播磨の守護に任ぜらる。摂津守護職は範資の子息光範が継ぐが,のち分割されて則祐も有馬郡を管轄。尊氏・義詮,直義,南朝の3者抗争のなかでは,一時期故護良親王の若宮を奉じて南朝側に属すが,義詮側に復帰して重用され,4歳の春王(義満)を66年(正平21∥貞治5)まで5年間播磨白旗城に養育す。…

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