(榎原雅治)
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南北朝時代の武将。則村の三男。比叡山にのぼり,天台座主の尊雲法親王(護良(もりよし)親王)に近侍す。建武政権の成立,足利尊氏による幕府の成立に力を尽くす。1350年(正平5・観応1)に則村,翌年兄範資が死没したあと赤松氏惣領となり,播磨の守護に任ぜらる。摂津守護職は範資の子息光範が継ぐが,のち分割されて則祐も有馬郡を管轄。尊氏・義詮,直義,南朝の3者抗争のなかでは,一時期故護良親王の若宮を奉じて南朝側に属すが,義詮側に復帰して重用され,4歳の春王(義満)を66年(正平21・貞治5)まで5年間播磨白旗城に養育す。備前守護,幕府の禅律方頭人となる。播磨では城山(揖保郡)に築城し,宇野,吉田氏ら一族を守護代に任ず。妻は佐々木高氏(道誉)の女。禅僧との交流も深く,大徳寺第2世徹翁義亨らに学び,また帰依した雪村友梅を勧請開山として宝林寺を建立。京都西洞院邸に没す。諡号(しごう)は宝林寺殿自天妙善。
執筆者:岸田 裕之
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南北朝時代の武将。則村(のりむら)の三男。1350年(正平5・観応1)に則村、翌1351年兄範資(のりすけ)の死没後、赤松氏惣領(そうりょう)になる。播磨(はりま)国守護職、のち摂津国有馬(ありま)郡を管轄。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)の過程では、一時期南朝側に属すが、足利義詮(あしかがよしあきら)側に復帰して活躍し、備前(びぜん)国守護職に任ぜられ、幕府の禅律方頭人になる。播磨守護代には一族の宇野氏、吉田氏、備前には浦上(うらがみ)氏を配置する。妻は佐々木導誉の女(むすめ)。禅僧との交流も深く、雪村友梅(せっそんゆうばい)を勧請開山(かんじょうかいざん)として宝林寺を建立した。諡号(しごう)は宝林寺殿自天妙善。
[岸田裕之]
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…南北朝時代の武将。則村の三男。比叡山にのぼり,天台座主の尊雲法親王(護良(もりよし)親王)に近侍す。建武政権の成立,足利尊氏による幕府の成立に力を尽くす。1350年(正平5∥観応1)に則村,翌年兄範資が死没したあと赤松氏惣領となり,播磨の守護に任ぜらる。摂津守護職は範資の子息光範が継ぐが,のち分割されて則祐も有馬郡を管轄。尊氏・義詮,直義,南朝の3者抗争のなかでは,一時期故護良親王の若宮を奉じて南朝側に属すが,義詮側に復帰して重用され,4歳の春王(義満)を66年(正平21∥貞治5)まで5年間播磨白旗城に養育す。…
※「赤松則祐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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