姫路藩 (ひめじはん)
播磨国(兵庫県)飾東(しきとう)郡姫路を城地とした譜代中藩(初期は外様大藩)。1580年(天正8)羽柴(豊臣)秀吉が黒田孝高(よしたか)から姫路城を譲られたが,本能寺の変(1582)ののち大坂城に移り,そのあと83年に弟秀長が在城し,ついで85年以降木下家定1万1300石(のち2万5000石)が在城した。関ヶ原の戦後1ヵ月,1600年(慶長5)10月徳川家康の女婿池田輝政が播磨一国52万石の大名として入城した。その翌年,机上計算で6年前の太閤検地の高を早くも2割増高(ましだか)する措置をとり,それを追認させる作業として,数年をかけて2割打出し検地を行った。ここに内検地高は62万9000石となり,03年に次男忠継に与えられた備前28万石,10年に三男忠雄に与えられた淡路6万3000石を合わせて,100万石の大大名となった。一方,1601年から秀吉の城をはるかにしのぐ新姫路城の築造にかかり,町も大大名の城下にふさわしく整えられた。13年輝政が死に,嫡子利隆には遺領のうち42万石が引き継がれた。しかし3年後利隆は死に,子の光政が跡を継いだが,幼少のため17年(元和3)鳥取移封となった。輝政が西国将軍の異名をとったように,姫路は西国の押さえとして重視され,以後代々15万石(松平忠明のみ18万石)の譜代大名が配された。すなわち1次本多(1617-)-奥平松平(1639-)-1次結城松平(1648-)-1次榊原(1649-)-2次松平(1667-)-2次本多(1682-)-2次榊原(1704-)-3次松平(1741-)と,領主は激しく替わり,1749年(寛延2)の酒井氏入封に至った。領主のこの激しい交替のほとんどは,幼少のものが跡を継ぐと,さっそく他地(越後村上,高田)へと移封を命じられたもので,姫路の地が西国の押さえとして重視されていたことをうかがわせる。
18世紀に入った2次榊原時代,御手伝普請などの臨時の出費で藩財政の窮乏が表面化し,家臣知行の上米(あげまい)も実施された。次の3次松平に至っては,4代90余年の間に9回転封したこともあって負債に苦しみ,塩座役,帆別役(ほべつやく)などの徴収,御用金,各種特権商人の指定など過酷な収奪を行ったため,前橋移封内示後の1749年正月,ついに寛延全藩一揆の蜂起にあった。代わって入封した酒井氏に至って姫路藩は定着し,10代120余年の治世が続くが,入封3代にして藩財政は悪化し,1808年(文化5)藩債は13万両に達した。時の家老河合寸翁は09年姫路木綿をはじめとする諸国産の専売にとりかかった。そして大坂の問屋に対抗して,木綿を江戸へと直送する行動に出た。21年(文政4)には国産会所を開設し,23年には幕府から江戸表における木綿の専売権を許され藩専売制を強化しえた。これによって藩債は早くも天保(1830-44)初年にはほとんど償却した。酒井氏は1822年将軍家と縁故を結んで以来国事に奔走し,幕末には忠績(ただしけ),忠惇(ただとし)が大老,老中として幕閣に重きをなした。このため鳥羽・伏見の戦にも旧幕府側で行動し,官軍の追討をうけた。
執筆者:八木 哲浩
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姫路藩
ひめじはん
播磨(はりま)国(兵庫県)西部を領した譜代(ふだい)雄藩。領主は譜代大名の交代が激しく、1749年(寛延2)酒井忠恭(ただずみ)の入部によって落ち着き、廃藩置県に至る。成立は豊臣(とよとみ)秀吉が木下家定(いえさだ)(高台院の兄)に2万5000石余で封じたことが始まりである。1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後、池田輝政(てるまさ)が三河(愛知県)吉田から52万石で入り、播磨一国の総検地を行い、築城、城下町整備に治績をあげた。1613年輝政の死後、嫡子利隆(としたか)が相続、次男忠継(ただつぐ)(備前(びぜん)岡山)に一部分与して42万石余を領した。1616年(元和2)利隆の死でその嫡子光政(みつまさ)が継いだが、翌年因幡(いなば)鳥取に移った。池田氏のあと桑名(くわな)から本多忠政(ほんだただまさ)が15万石余で入部、1631年(寛永8)忠政の死で嫡子政朝(まさとも)が継いだが38年死に、この翌年嗣子(しし)政勝(まさかつ)が大和郡山(やまとこおりやま)(奈良県)に移り、以後、藩主は松平(奥平)、松平(結城(ゆうき))、松平(榊原(さかきばら))、本多などとめまぐるしく交替した。1748年酒井忠恭の入部直前には全藩一揆(いっき)が起こり、大坂城代の手でやっと鎮圧した。忠恭は文治政治を展開、忠以(ただざね)、忠道(ただひろ)、忠実(ただみつ)もよく文治を継承した。幕末、藩財政はしだいに困窮していったが、家老河合寸翁(すんおう)(1767―1841)を中心として藩札の発行、1821年(文政4)の木綿専売など藩政改革が行われた。分家筋忠績(ただしげ)が藩主になるや幕政に加わり大老までなった。佐幕派であったが、維新に際し朝廷方に帰順し、廃藩置県を早く建言した。1871年(明治4)廃藩、姫路県、飾磨(しかま)県を経て1876年兵庫県に編入された。
[小林 茂]
『『兵庫県史 4・5』(1979、80・兵庫県)』
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ひめじはん【姫路藩】
江戸時代、播磨(はりま)国飾東(しきとう)郡姫路(現、兵庫県姫路市)の姫路城に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩および親藩(しんぱん)。藩校は好古堂(こうこどう)。1600年(慶長(けいちょう)5)、関ヶ原の戦いの戦功により、三河(みかわ)国吉田から徳川家康(とくがわいえやす)の娘婿池田輝政(てるまさ)が播磨1国52万石を与えられて入封(にゅうほう)、西国(さいごく)を監視する要衝として姫路藩が成立した。この雄藩にふさわしい居城とするため、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の城だった姫路城が大拡張され、現在国宝として残る新姫路城が築造された。しかし、17年(元和(げんな)3)、3代藩主光政(みつまさ)が幼少のため因幡(いなば)国鳥取藩へ転封(てんぽう)(国替(くにがえ))となり、代わって本多忠政(ほんだただまさ)が15万石余で入封。その後、松平(奥平)氏、松平(結城)氏、松平(榊原)氏、本多氏など藩主が頻繁に交代、酒井忠恭(ただずみ)が一揆の騒乱後に15万石で入封した1749年(寛延(かんえん)2)以降は、明治維新まで酒井氏が10代続いた。酒井氏は将軍家と縁故を結び、幕末には8代藩主忠績(ただしげ)と、その弟の9代藩主忠惇(ただとし)が大老、老中になるなど幕府の要職を務め、そのため戊辰(ぼしん)戦争では朝敵とされて新政府軍の追討を受けた。1871年(明治4)の廃藩置県で姫路県となり、その後、飾磨(しかま)県を経て、76年兵庫県に編入された。
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姫路藩
ひめじはん
播磨国姫路(現,兵庫県姫路市)を城地とする家門・譜代大藩。1600年(慶長5)池田輝政が播磨一国52万石を領したが,17年(元和3)孫の光政のとき因幡国鳥取へ転封。かわって伊勢国桑名から譜代の本多忠政が15万石で入封。その後,姫路は西国の押えとしての重要性から幼主などを嫌い,松平(奥平)・松平(結城)・榊原・松平(結城)・本多・榊原・松平(結城)各氏と,再封や再々封を含め頻繁な譜代・家門間での藩主交代の舞台となる。1749年(寛延2)松平氏が上野国前橋に移り,入れ替りに酒井忠恭(ただずみ)が入封。以後10代にわたる。この交代時に藩全域に及ぶ大規模な一揆がおこった(寛延の姫路藩一揆)。酒井氏は内分支藩姫路新田藩を立てたが,50年ほどで絶家。詰席は帝鑑間。藩校好古堂。廃藩後は姫路県となる。
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姫路藩
ひめじはん
江戸時代,播磨国 (兵庫県) 姫路地方を領有した藩。木下家定が慶長5 (1600) 年備中足守へ移封されてからは,江戸幕府が軍事上の要地として家門,譜代の諸大名を配した。同5年池田氏 52万石の入封に始り,本多氏,松平 (奥平) 氏,松平 (結城) 氏,榊原氏らを経て寛延2 (1749) 年に酒井忠恭が上野 (群馬県) 厩橋から 15万石で入封して廃藩置県にいたった。酒井氏は譜代,江戸城溜間詰。
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姫路藩【ひめじはん】
播磨(はりま)国姫路に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩主は池田氏・本多氏・松平(奥平)氏・松平(結城)氏・榊原氏・松平(結城)氏・本多氏・榊原氏・松平(結城)氏,1749年以降は酒井氏が在封。領知高は当初52万石,1617年本多氏以降はほぼ15万石。
→関連項目播磨国
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姫路藩
播磨国、姫路地方(現:兵庫県姫路市)を領有した藩。初代藩主は播磨一国52万石を領有した池田輝政で、現在国宝となっている姫路城の大規模改築を行った。以後の藩主に本多氏、松平(結城)氏など。寛延年間に酒井忠恭が15万石で入封してからは、明治維新まで酒井氏が統治した。
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世界大百科事典(旧版)内の姫路藩の言及
【播磨国】より
…このため困窮した領民の蜂起がしばしばみられるようになる。1739年(元文4)佐用郡平福の旗本松平氏知行所の一揆,49年(寛延2)[姫路藩]の全藩惣百姓一揆,87年(天明7)の林田藩領の打ちこわしなどがそのおもなものである。 播磨の産業としてはまず17世紀の塩業の展開があげられる。…
【藩政改革】より
…例えば,播磨・但馬両国内に展開している大小諸藩をみても,こぞってこの時期に国産会所の設立に走っているが,ただ,産物会所を設け,専売制の実施に踏み切っても赤穂藩の[塩専売制度]のように,逆に1821年(文政4)には産物会所の解散に追い込まれていく場合もみられた。 そんななかで,姫路藩の木綿専売は際だった成果として喧伝されている。そして,その成果の掌握を指導したのが家老河合道臣(寸翁)であった。…
※「姫路藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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