日本歴史地名大系 「子ノ神新田村」の解説
子ノ神新田村
ねのかみしんでんむら
南方を
「諏訪史」によれば、正保三年(一六四六)の開発で、見立役人は赤沼七郎左衛門、草分人は縫左衛門・弥左衛門らである。享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には「家数二九軒 高一〇八・四七一二石」とある。宝暦年間(一七五一―六四)には山方の村々で新林の分をつぶして草野にする動きが出現し、子之神新田においても宝暦一二年、名主・年寄・百姓惣代が連名で、「里筋役人及び村々惣代衆中へ子之神新田新林取潰し請合証文」(子之神共有)を出し、「林風除・家風除ニ二方立残之、其外新林之分不残伐倒申候、猶又此末新林一切不仕、仕付させ間敷候」と決意を表明している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報