穴山村(読み)あなやまむら

日本歴史地名大系 「穴山村」の解説

穴山村
あなやまむら

[現在地名]茅野市玉川たまがわ 穴山

南部を弓振ゆんぶり川(八ヶ岳連峰阿弥陀あみだ岳を源とする、みや川の上流)が西流し、西は菊沢きくざわ村、北は山田新田やまだしんでん村に接する。御柱道おんばしらみち大門道だいもんみち(善光寺道)集落中央で交わっている。

「諏訪郡諸村旧蹟年代記」には「穴山新田 正保元年 嘉兵衛 仁兵衛」とあり、また「諏訪史」によれば、正保三年(一六四六)の開発で、見立役人は塩原三右衛門、草分人は嘉兵衛・仁兵衛とあり、親村は不明である。当新田は江戸時代より山浦やまうら地方としては珍しく家内工業や諸商いが発達した所で、紺屋・小倉織・足袋・寒心太(寒天)漆器農具・鋸鍛冶・菓子・大工・石工・杣・指物馬喰等の業が相次いで興っている(「諏訪史蹟要項」玉川篇)


穴山村
あなやまむら

[現在地名]韮崎市穴山町

小田川こたがわ村の西、釜無川左岸の七里岩しちりいわ台地上に位置する。甲州道中はら路が通る。当地から河原部かわらべあな明神(現若宮八幡)へ通ずる坑道があったとの伝説があり、地名の由来もこのことによるという(甲斐国志)重久しげひさ伊藤窪いとうくぼ次第窪しだいくぼ石水いしみず久保くぼなどの集落に分れ、南部には寛永年中(一六二四―四四)に開発されたという枝郷の夏目原なつめはら新田がある。中世穴山郷として推移し、同郷は武田氏一族穴山氏の本貫地という。慶長六年(一六〇一)検地帳(県立図書館蔵)が残るが、一二冊のうち一冊を欠き、同検地帳では「穴山之郷」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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