コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

伊予国 いよのくに

6件 の用語解説(伊予国の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

伊予国
いよのくに

現在の愛媛県。『古事記』に「愛比売」とみえる。南海道の一国。上国。もと伊余,久味,小市,怒麻,風速の5国造が支配。国府,国分寺ともに今治市桜井町。『延喜式』には宇麻 (うま) ,新居 (にひゐ) ,周敷 (しゆふ) ,桑村 (くはむら) ,越智 (をち) ,野間 (のま) ,風速 (かさはや) ,和気 (わけ) ,温泉 (ゆ) ,久米 (くめ) ,伊予 (いよ) ,浮穴 (うけな) ,宇和 (うわ) ,喜多 (きた) の 14郡があり,『和名抄』には郷 68,田1万 3501町余が記載されている。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

いよ‐の‐くに【伊予国】

伊予

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

伊予国【いよのくに】

旧国名。予州とも。南海道の一国。現在愛媛県。《延喜式》に上国,14郡。中世,佐々木宇都宮・河野氏らが守護,その末期,長宗我部小早川氏らが支配。近世,松山・宇和島・大洲(おおず)などの諸藩に分かれていた。
→関連項目宇和島藩愛媛[県]四国地方弓削島荘

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

藩名・旧国名がわかる事典の解説

いよのくに【伊予国】

現在の愛媛県域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で南海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の今治市におかれていた。平安時代中期に藤原純友(ふじわらのすみとも)らが日振島(ひぶりしま)を拠点に反乱を起こし、それを平定した越智(おち)氏が土豪として勢力をふるった。鎌倉時代以降、佐々木氏宇都宮氏河野氏細川氏、山名氏らが守護となったが、土佐(高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に平定された。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の四国平定後、小早川隆景(こばやかわたかかげ)福島正則(ふくしままさのり)、加藤嘉明(かとうよしあき)、藤堂高虎(とうどうたかとら)が領有した。1690年(元禄(げんろく)3)以後、別子(べっし)銅山は国内最大の銅山となった。江戸時代には、宇和島、松山など8藩が分立、幕末に至った。明治維新後、8藩は8県となったが、1871年(明治4)の廃藩置県ののち宇和島県と松山県の2県となり、1872年(明治5)に宇和島県は神山(かみやま)県、松山県は石鉄(いしづち)県と改称、1876年(明治9)に合併し愛媛県となった。◇予州(よしゅう)ともいう。

出典|講談社
(C)Kodansha 2011.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

いよのくに【伊予国】

旧国名。伊与とも書く。予州。現在の愛媛県の全域にあたる。
【古代】
 南海道に属する上国(《延喜式》)。国府は越智(おち)郡(今治市とその周辺)におかれ,国内には,宇麻(宇摩),神野(のち新居(にい)に改める),周敷(すふ),桑村,越智,野間,風早(かざはや),和気,温泉(ゆ),久米,伊予,浮穴(うけな),宇和(のち喜多郡を分郡)の各郡があった。古く伊余(いよ),怒麻(ぬま),久味(くみ),小市(おち),風速の5国造が置かれていたといわれ,大化改新後伊予国となった。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

伊予国
いよのくに

現在の愛媛県全域にあたる旧国名。南海道に属する。国名は「い湯(ゆ)」(は発語)すなわち温泉の意に由来するという。原始時代の伊予は、各地で発掘された遺跡・遺物によってその大要を知りうる。すなわち、上浮穴(かみうけな)郡久万高原(くまこうげん)町上黒岩(かみくろいわ)で縄文早・前期、南宇和(みなみうわ)郡愛南(あいなん)町御荘平城(みしょうひらじょう)をはじめ県下の各地で後・晩期の遺物が発掘された。松山市南町付近、今治(いまばり)市阿方(あがた)貝塚では弥生(やよい)前期の土器、松山市祝谷(いわいだに)土居窪(どいのくぼ)遺跡では中期の木鍬(きぐわ)などを出土した。松山市古照(こでら)遺跡から後期に属する農業用の井堰(いぜき)が、西予(せいよ)市、松山市、西条(さいじょう)市などから67口の銅剣、銅鉾(どうほこ)が発見された。今治市相ノ谷(あいのたに)の前方後円墳は古墳時代の前期を代表し、今治(いまばり)市朝倉野々瀬七間塚(円墳)をはじめ各地に後期のものが分布している。『旧事本紀(くじほんぎ)』によれば、古く伊余(いよ)、怒麻(ぬま)、久味(くみ)、小市(おち)、風速(かざはや)の5国造(くにのみやつこ)が置かれたというが、大化改新(645)ののち、伊予国は宇摩(うま)、新居(にい)(初め神野(かんの))、周敷(すふ)、桑村、越智、野間(のま)、風早(かざはや)、和気(わけ)、温泉(ゆ)、久米(くめ)、浮穴(うきあな)、伊予、喜多(きた)、宇和の14郡、その下に68郷、191里が置かれ、律令(りつりょう)体制が整備した。国府、国分寺は現在の今治市内にあると推定される。地方政治の弛緩(しかん)するなかで、前伊予掾(いよのじょう)の藤原純友(すみとも)が宇和郡日振(ひぶり)島に拠(よ)って海賊を糾合し、承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱(936~941)を起こした。源平合戦にあたり、河野通信(こうのみちのぶ)らは率先して源頼朝(よりとも)に応じ、壇ノ浦(だんのうら)の戦いに功績をあげ地方勢力を形成した。建武(けんむ)新政の崩壊後も、風早郡忽那(くつな)七島に拠った忽那義範(くつなよしのり)は、征西将軍懐良(かねなが)親王を迎え西瀬戸内海を席巻(せっけん)した。一方、足利尊氏(あしかがたかうじ)に信頼された河野通盛(みちもり)およびその子孫は、守護職を留保した。応仁(おうにん)の乱(1467~77)前から河野氏は本家と予州家が争い、家臣団の離反と周辺の群雄の重圧によって領国の維持は困難となった。1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉の四国征伐にあい河野氏は滅亡し、1657年(明暦3)までに西条(さいじょう)、小松(こまつ)、今治、松山、大洲(おおず)、新谷(にいや)、宇和島、吉田の8藩が成立した。中期以降、粗銅、西条奉書(ほうしょ)、伊予絣(がすり)、大洲半紙、仙貨紙(せんかし)の生産のほか製蝋(せいろう)、製塩が盛んとなった。松山明教館をはじめ8藩に藩校が置かれ、朱子学が普及した。松山藩に俳諧(はいかい)、大洲藩に国学が発達したのに対し、宇和島藩では蘭学(らんがく)が勃興(ぼっこう)して、開明的な勤王藩として活躍した。
 維新後、8藩は8県となり、やがて松山、宇和島の2県に、さらに1873年(明治6)2月愛媛県に統合された。[景浦 勉]
『『愛媛県史概説 上巻』(1959・愛媛県) ▽景浦直孝著『伊予史精義』(1924・伊予史籍刊行会/復刻版・1972・名著出版) ▽『愛媛県編年史』全10巻(1975・愛媛県)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

伊予国の関連キーワード淡路国阿波国讃岐国志摩国能登国安房伊予尾張佐渡愛媛県今治市関前

今日のキーワード

日本政策投資銀行

1999年に日本開発銀行と北海道東北開発公庫を統合し、発足した政府系総合政策金融機関。一般の金融機関が行なう金融などを補完・奨励し、長期資金の供給などを行ない、日本の経済社会政策に金融上で寄与していく...

続きを読む

コトバンク for iPhone

伊予国の関連情報