宇布見郷
うぶみごう
浜名湖東岸、現雄踏町宇布見を遺称地とし、その北の山崎も含んだとみられる。浜松庄のうちで、浜名湖南部における交通の要地であった。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)の室町院領分に「宇布美郷遠繁」とあり、浜松庄の一部で、遠繁に与えられている。室町院の死後は大覚寺統に伝領された。現息神社が所蔵する永和元年(一三七五)一〇月一一日銘の獅子頭に、宇布見郷住人らが直銭五〇〇文で造立とある。現掛川市初馬にあった観音寺旧蔵の鐘銘(煙霞綺談)に翌二年三月一五日付で「浜松庄宇布見長宝寺」とみえる。明応七年(一四九八)の明応東海地震により今切が出現し外海と浜名湖が通じたとされるが、翌八年六月二日飛鳥井雅康が富士歴覧のため当地を通過した際、鷲津(現湖西市)の本興寺に宿泊したのち、「うふミのわたり」を通って引馬(現浜松市)に向かっている(富士歴覧記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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