宇納間村
うなまむら
[現在地名]北郷村宇納間
五十鈴川上流域に位置し、北は分城村(現日之影町)・北方村(現北方町)、西は家代村(現諸塚村)、南は田代村(現西郷村)、南東は八重原村(現東郷町)。南北朝期頃から当地は伊東氏支配下にあったと思われ、「日向記」によると文明一六年(一四八四)伊東祐国が飫肥の新納氏を攻めた際、祐国の率いた二三外城衆のなかに「宇那間」が含まれている。天正六年(一五七八)の高城・耳川合戦以後は島津氏の支配下にあった。「上井覚兼日記」同一三年八月二七日条に「宇名間」の地名がみえ、大友方の使者が高知尾に来て島津方と手を切るように説得したが、そうなれば「田代・宇名間辺輙かるへき由」との報告を受けた覚兼は、島津義久にその旨を伝えている。
天正一六年八月四日の日向国知行方目録には「一六町 宇納間」とみえ、高橋元種領となっている。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)に村名がみえ、高三八四石余。万治四年(一六六一)の延岡藩村高内検高覚でも同高、内検高は七三三石余。元禄五年(一六九二)の延岡藩領郷村高帳写(三浦家文書)では高三八四石余・出高二四七石余、新田高一三石余・出高九石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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