北郷村(読み)きたのごうむら

日本歴史地名大系 「北郷村」の解説

北郷村
きたのごうむら

[現在地名]浅井町北ノ郷

南郷なんごう村の北東、草野くさの川左岸に位置。「輿地志略」によれば、草野川筋の「井水の頭」であったという。高山たかやま上許曾かみこそ神社の鐘銘に嘉慶元年(一三八七)一〇月九日の記載とともに「北郷神主中原盛□」とある。慶長一二年(一六〇七)と推定される日下部善助沙汰状(中村文書)に「北之郷村」とみえる。寛永石高帳によれば高二三六石余で、小堀遠州領(幕府領か)正保郷帳では旗本小堀正十領、元禄郷帳では小室藩領だが、天明八年(一七八八)の改易後は幕府領

北郷村
きたごうそん

面積:一二〇・一七平方キロ

東臼杵郡の中央部に位置。北は北方きたかた町・西臼杵郡日之影ひのかげ町、南は西郷さいごう村、東は門川かどがわ町、西は諸塚もろつか村に接し、北部に速日はやひの峰(八六八メートル)がそびえる。五十鈴いすず川の上流域で、同川は村の南部を東流し、小原こばるで湾曲して北流する。縄文時代の長野ながのB遺跡・小原遺跡、弥生時代の長野A遺跡・椿原つばきわら遺跡などがある。中世は伊東氏の支配下にあり、伊東祐国の外城衆のなかに宇納間うなま入下にゆうしたが組込まれていた。江戸時代の当村域には臼杵郡宇納間村・入下村黒木くろぎ村の三村があり、一貫して延岡藩領であった。木炭生産が盛んで、天保八年(一八三七)には黒木村の山が延岡博労ばくろう町の者に売渡されている。

北郷村
きたごうむら

[現在地名]長野市浅川あさかわ 北郷

飯縄いいづな山東南の山麓にあって、浅川の谷間の村落。東は真光寺しんこうじ村・西条にしじよう村と谷川で境し、南は上松うえまつ村と谷川で境し、西は新安あらやす村に接し、北は飯縄山に続く。

村名の初見は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)で「四百拾石八斗 北郷村」とある。天文二三年(一五五四)に諏訪社下社秋宮造宮に際し、外籬一〇間を落合領広瀬ひろせ庄に課した時の「落合領桜庄七郷之造宮天文廿三取所覚」(桃井文書)に「北郷・南郷共正物三貫五百文、此外小役四百文」とあるが、天正六年(一五七八)の下諏訪秋宮造宮帳(諏訪大社上社文書)には「落合領中広瀬之庄七郷之役銭ニ而建之」とあって、広瀬庄に属し、その北郷から村名になったものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報