守富庄(読み)もりどみのしよう

日本歴史地名大系 「守富庄」の解説

守富庄
もりどみのしよう

緑川の南、雁回がんかい(木原山)の北部一帯の地域を占め、現富合とみあい町のほぼ全域と現城南じようなん町の一部(阿高地区)が当荘域であったと考えられる。九条家領の荘園で、木原きはら庄ともよばれた。建久六年(一一九五)二月日の肥後国司庁宣(阿蘇家文書)に「益木上郷内守富居合拾玖町」とみえ、当庄がすでに成立しており、そのうち甲佐こうさ社領の居合田(厳密な検注によるのでなく、関係者の居合の沙汰すなわち妥協的協定によって社領とした田地)が交じっていたこと、この地域が益木(城)上郷(ほかに益木本郷・益東郷が益城郡内に分立していた)に属していたことがわかる。九条家領としての立荘の経過は不明だが建仁元年(一二〇一)九条兼実は当庄を皇嘉門院(藤原忠通女聖子、崇徳中宮)建立の証真如院の仏聖灯油・供僧料として寄進し、造宇佐宮役を除く一国平均の諸役が免除され荘園として完成した(同年七月一四日「太政官牒」・同七月日「後鳥羽院庁下文」九条家文書)。荘田数は不明だが、荘内の地名西倉にしくら榎津えのきづ清松きよまつ名・いまふち(文永四年一月二〇日「尼玄海寄進状」山城万寿寺文書)のほか、国庁こくちよう本札もとふだ(鎌倉末期「三聖寺領文書惣目録」三聖寺文書)が鎌倉期にみえ、さらに戦国期の文書には三十町さんじつちよう大町おおまち阿多香あだか(高)などののちの村名もみられる。

元久元年(一二〇四)兼実は譲与の所領について置文を定め、当庄の「年貢□用銭并雑事」をしばらく宜秋門院(兼実女任子、後鳥羽中宮)庁役に充てたが(同年四月二三日「九条兼実置文」九条家文書)、女院没後は惣領道家の進退となった。その後、道家は延応元年(一二三九)当庄所出物のうちから三〇〇石を大和国興福こうふく寺維摩会料に充て(維摩会講師研学竪義次第)、建長二年(一二五〇)一一月には家領の惣処分状(東福寺文書)を書き、当庄は息男の前摂政一条実経に伝領された。それには「肥後国守富庄証真如院領地頭請所」とあり、当時当庄が地頭請所となっていたことが知られる。鎌倉中期の一条摂政実経家所領目録案断簡(九条家文書)には、当庄の年貢は一千二六一石の国定であったが近年は八〇〇石の地頭請所となっており、そのうち三八五石余は興福寺、三〇〇石は維摩会加供米、一〇〇石は談義米、四〇石は成就宮社用であると記されている(計八二五石になる)。証真如院の得分については不明であるが、当時の年貢収取の内容の一端が知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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