宗叡(読み)しゅうえい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宗叡」の意味・わかりやすい解説

宗叡
しゅうえい
(809―884)

平安初期の真言宗の僧。「しゅえい」ともいう。一名、禅林寺僧正。京都の人。初め比叡山(ひえいざん)に学び、また南都興福寺に法相(ほっそう)学を学んで、のちに東寺(とうじ)の実慧(じちえ)の弟子となって真言密教を受ける。862年(貞観4)真如(しんにょ)法親王と入唐(にっとう)し、汴(べん)州の玄慶に金剛界大法を、青龍寺法全(生没年不詳)に胎蔵界大法を受法した。さらに善無畏(ぜんむい)三蔵の古跡を訪問したりして865年帰朝。そのとき多くの密教典籍や法具を請来(しょうらい)し、東寺に入る。その目録『新書写請来法門等目録』が現存する。879年(元慶3)東寺第5代長者となる。清和(せいわ)天皇の一生と深くかかわり、生涯その寵遇(ちょうぐう)を得た。

[平井宥慶 2017年7月19日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宗叡」の解説

宗叡 しゅえい

809-884 平安時代前期の僧。
大同(だいどう)4年生まれ。真紹の甥(おい)。真言宗。比叡(ひえい)山の義真,円珍に天台をまなび,のち東寺の実恵(じちえ),真紹に師事。貞観(じょうがん)4年(862)真如(しんにょ)とともに唐(とう)(中国)にわたり,7年帰国。東大寺別当,東寺長者をつとめた。僧正。元慶(がんぎょう)8年3月26日死去。76歳。京都出身。俗姓池上通称は後入唐僧正,禅林寺僧正など。著作に「後入唐伝」「胎蔵次第」など。

宗叡 しゅうえい

しゅえい

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の宗叡の言及

【禅林寺】より

…空海の弟子真紹は仁明天皇の厚遇に報いるため河内の観心寺に五仏を安置したが,辺地の縁に乏しいことを嘆き,855年(斉衡2)上表して藤原関雄の東山の山荘を買得し,一宇を建立して五仏を安置し,鎮護国家の道場としたのが初めである。2世の宗叡は真紹の甥で清和天皇に進講し,863年(貞観5)天皇は禅林寺の寺名を下して定額寺とし,877年(元慶1)には山城愛宕(おたぎ)郡の公田4町が施入された。ついで3世に平城天皇の皇子真如法親王,4世に宇多天皇の孫寛忠,5世に九条師輔の子深覚,6世に花山天皇の皇子深観が入寺し,真言宗の血脈にそいながら貴族の寺として栄えた。…

【請来目録】より

…円珍(853‐858年在唐)には長安,天台山で求得した772巻の経典,梵夾,法具などの〈国清寺求法目録〉,福州から台州の間に求得した経典,外書を記載した〈福州温州台州求得目録〉,福州開元寺で求得した156巻の経典,梵夾の目録,青竜寺で求得した経典115巻,曼荼羅,法具の目録で師法全の証明の加えられている〈青竜寺求法目録〉の4種のほか,これらを網羅して計1000巻,法具16種を記載した総目録の5通があり,いずれも原本が園城寺に伝えられる。宗叡(862‐865年在唐)も青竜寺法全から受法し,143巻の聖教,図像,舎利,法具のほかに暦書,木版の辞書等をその目録に記載し先人請来以外の新しいもののみを掲載したことを強調している。【栗原 治夫】。…

※「宗叡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android