インド出身の翻訳僧。サンスクリット名シュバカラシンハŚubhākarasiha(輸波迦羅(ゆばから)と音写)。中インド摩伽陀(マカダ)国の王であったが、兄たちの反乱と、その征伐の際の負傷により仏門に入り、那蘭陀(ナーランダ)寺で達摩掬多(だるまきくた)(ダルマグプタDharmagupta)に密教を学んだ。『貞元新定釈経録(じょうげんしんじょうしゃくきょうろく)』巻14によれば、龍智菩薩(りゅうちぼさつ)の弟子、金剛智(こんごうち)三蔵の同門とある。師の命により梵夾(ぼんきょう)(サンスクリット原典)を持って中央アジアから716年(開元4)長安に達した。玄宗により国師として迎えられ、興福寺南塔院に住んだが、724年洛陽(らくよう)の大福先寺に移って、弟子の一行(いちぎょう)の協力を得て『大日経(だいにちきょう)』7巻を翻訳し、中国密教の確立に貢献した。なお、その際、訳場に列した一行が善無畏の『大日経』の講義を記しまとめたものが注訳書『大日経疏(だいにちきょうしょ)』である。開元23年、99歳で死去。訳書は25部45巻に及ぶ。
[小野塚幾澄 2016年12月12日]
中国密教の伝訳僧。サンスクリット名をシュバカラシンハŚubhakarasiṃhaといい,善無畏はその意訳。東インドの烏荼(うだ)国(オリッサ)に生まれ,幼くして国王となったが,後に出家し中インドのナーランダー僧院で達磨鞠多(ダルマグプタ)について密教の奥義をきわめた。師の勧めにより,カシミール,天山北路を通って716年(開元4)長安にいたった。玄宗の帰依をうけ,勅によって,興福寺南塔院,西明寺に住して《虚空蔵求聞持法》を訳した。724年洛陽大福先寺にうつり,725年《大毘盧遮那成仏神変加持経》すなわち《大日経》を弟子の一行と訳出した。これは無行招来のサンスクリット原本(1~6巻)と自己招来の《供養品》を合して全7巻としたものである。その後も《蘇婆呼(そばこ)童子経》《蘇悉地羯羅(そしつじから)経》などの密教経典を訳し,《大日経》を中心とするインドの純正密教を初めて中国に伝えた。
執筆者:松本 史朗
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…図像本をくりながら諸尊の修法を視覚的に体得する観法書であるため,《五部心観》と称される。これは滋賀円城寺に蔵され,円珍が入唐求法(852)の際,師の青竜寺の法全(はつせん)から授与された手中本であり(表題註記,奥書による),巻末に描かれた肖像の梵語には〈此の法は阿闍梨善無畏三蔵の所与なり〉,紙背には〈此無畏和上真也〉とあって,これが善無畏にもとづくことを示している。この時代の遺品は少なく,図像ののびやかな張りのある描線は晩唐風で,絵画史的に貴重な作品である。…
…もと《大毗廬遮那成仏神変加持経》という。中国,唐の善無畏訳。36品からなり,第31品までは唐の無行が将来した原本,第32品以下は善無畏が将来した供養次第法で,善無畏が両本を漢訳して合本とした。…
※「善無畏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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