宮野原村(読み)みやのはらむら

日本歴史地名大系 「宮野原村」の解説

宮野原村
みやのはらむら

[現在地名]津南町上郷宮野原かみごうみやのはら

信越国境をなす志久見しくみ川が信濃川に注ぐ三角地点から、志久見川右岸に細長く点在する諸集落よりなる。下流から逆巻さかさまき・宮野原・朴木沢ほきざわ小池こいけ加用かようもも前子まえこ出浦いずら烏帽子えぼしがある。これらの集落を貫いて南方山地へ登る道は、中津なかつ川の左岸を走って秋山あきやま郷に至る。天保郷帳によると、かつては宮ノ原村・上朴木沢村・小池村・加用村・百木もものき新田の五ヵ村であった。前子の西方の信越国境に志久見川支流の北野きたの川とかま川が東西から迫って急崖をなす馬背状の尾根長峰ながみねという。暦応三年(一三四〇)八月日の市河倫房軍忠状(市河文書)によると、同月二〇日新田義宗らが越後国から「志久見山」に攻め入り、「長峯」に陣し、翌日信濃守護代吉良時衡は市河倫彦らを率いてこれを攻めている。


宮野原村
みやのはらむら

[現在地名]洲本市安乎町宮野原あいがちようみやのはら

北谷きただに村の北にあり、津名つな郡に属する。東は下司くだし(現津名町)岩屋いわや街道は安乎下あいがしも村と北谷村の境界付近を北上して当村東端を通り、下司村の赤堂あかんどうに至る。赤堂より西に折れ、郡家ぐんげ(現一宮町)へ向かう道が北西へ通る。正保国絵図に村名がみえ、高四七四石余。天保郷帳では高五六二石余。安乎組に属した。反別戸数取調書によれば反別四一町二反余、高五四〇石余、うち蔵入高三三一石余、二九一石余が蜂須賀若狭ら七名の給知。家数七六・人数四五五。明治一〇年(一八七七)北谷村など二ヵ村と合併豊秋とよあき村となる。

五百羅漢の寺で知られる高野山真言宗蓮花寺がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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