富川村(読み)とみかわむら

日本歴史地名大系 「富川村」の解説

富川村
とみかわむら

[現在地名]大津市大石富川町おおいしとみかわちよう

ひがし村の南東にある広域の村で、納所のそ脇出わきで加河かが奥加河おくかが中垣内なかがいと石倉いしくらの集落が点在する。平安期の堂坊跡を残す奈良坊北ならぼうきた遺跡・奈良坊南遺跡がある。信楽川沿いに関津せきのつ峠を経て甲賀郡と瀬田方面を結ぶ関津道が通り、応仁元年(一四六七)八月には応仁の乱を避け伊勢への道をとった足利義視一行は当村春日神社社殿で一泊したという(近江栗太郡志)。天正一一年(一五八三)八月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)に「とひ川」二四一石余とある。江戸期を通して膳所藩領。寛永石高帳に村名がみえ、高三四六石余、小物成銀一貫三二匁。慶安高辻帳では田一八六石余・畑一〇一石余、永荒五八石余。文政一二年(一八二九)の村明細帳(佐々木文書)によれば家数五五のうち寺社方一〇・役人六・小家借九・本役一九・半役九・歩行二、男一三四・女一一六。


富川村
とみがわむら

[現在地名]上磯郡上磯町富川一―二丁目・字富川町・字柳沢やなぎさわ

近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した村。近世は矢不来やふらい村の北にあり、東は函館湾。東在箱館付村々のうち。元禄郷帳、享保十二年所附に富川村、天保郷帳では「従松前東在」に村名がみえる。宝暦八年(一七五八)成立の「松前蝦夷聞書」では「とび川」の家数一三、四軒。天明年間(一七八一―八九)の家数三〇余・人数一四〇余(蝦夷拾遺)。文化九年(一八一二)には六四軒・二一八人(箱館市中并村々六ヶ場所家数人別帳)。松前藩領時代は藩士の給所で、「西蝦夷地日記」文化四年八月八日条に「高台昔蠣崎三弥居所之由今も堀土手内之跡ありといふ」とある。


富川村
とみがわむら

[現在地名]銚子市富川町

しのび村の北西方、利根川右岸に位置し、銚子道が通る。天正二〇年(一五九二)一月の知行書立(本光寺文書)に富川之郷とみえ、当郷一三一石余が松平家忠領になっている。寛文四年(一六六四)の内田正衆領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、下野鹿沼藩領であった。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一三一石余で旗本内藤領。


富川村
とみかわむら

[現在地名]五所川原市太刀打たちうち

津軽平野北部、北は沖飯詰おきいいづめ村に接する。

元文二年(一七三七)検地帳は富川村田方九町九反八畝二八歩・畑方一二町九反六畝六歩、田畑屋敷合せて二二町九反五畝四歩、村高八五・九一七石と記す。同年俵元新田の一つに数えられ、享保一二年(一七二七)の村位は下で、石盛は四ツ成であった(平山日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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