日本歴史地名大系 「銚子市」の解説 銚子市ちようしし 面積:八三・五九平方キロ千葉県域の最北東端、利根川河口部に位置する。西部は北から香取郡東庄(とうのしよう)町、海上(かいじよう)郡海上(うなかみ)町・飯岡(いいおか)町と接し、南部は屏風(びようぶ)ヶ浦が続く。北部は利根川を境に茨城県波崎(はさき)町で、銚子大橋によって結ばれる。JR成田線・総武本線が通り、これに銚子電鉄が接続し、犬吠(いぬぼう)埼灯台などに至る。国道一二六号・同三五六号が通る。〔原始―中世〕三崎三丁目(みさきさんちようめ)遺跡は旧石器時代の三つの文化層からなり、約七千五〇〇点の遺物が出土している。縄文時代の遺跡では小川(おがわ)地区の粟島台(あわしまだい)貝塚が前期中葉から中期後葉とされ、琥珀の供給地であった。その原石は長崎(ながさき)から海鹿(あしか)島にかけての海岸で産出した。後期中葉から晩期にわたる余山(よやま)貝塚では活発な漁労活動がうかがえる。三崎地区の佐野原(さのはら)遺跡では弥生時代中期末より後期にわたる住居跡を検出、出土土器は佐野原I式・II式に分類された。ほか野尻(のじり)地区の前方後円墳、奈良・平安時代にわたる西町(にしまち)遺跡などがあり、市域では遺跡数一八五ヵ所を数える。律令制下では「和名抄」にみえる海上(うなかみ)郡に属し、郡内の三前(みさき)郷・船木(ふなき)郷などは市域に比定される。高神東(たかがみひがし)町の賢徳(けんとく)寺、春日(かすが)町の観行(かんぎよう)院などは八世紀の開創と伝え、常世田(とこよだ)町の常灯(じようとう)寺は平安時代中期の創建とされる。平安末に九条家領としてみえる三崎庄は海上庄とも号し、現市域と現飯岡町・旭市にわたる広域の庄園と考えられるが、鎌倉時代には香取社の遷宮に際して造営負担を行う一方、千葉氏の浸透があった。この一族東庄氏の流れの胤方が同庄を領有し、海上氏を称して在地勢力として重きをなし、中島(なかじま)城などを拠点としたとされる。同氏から本庄・船木・辺田・高上・松本の諸氏らが分れた。一四世紀後半には野尻・垣根(かきね)・森戸(もりと)・飯沼(いいぬま)などの津がみえており、香取の海を舞台とする人々が活動していた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「銚子市」の意味・わかりやすい解説 銚子〔市〕ちょうし 千葉県北東端,利根川河口にのぞむ水産都市。 1933年本銚子 (もとちょうし) ,銚子,西銚子の3町と豊浦 (とようら) 村が合体して市制。さらに,54年船木 (ふなき) ,椎柴 (しいしば) の2村,55年豊里 (とよさと) 村,56年豊岡 (とよおか) 村をそれぞれ編入。江戸時代,東北地方の物資を江戸に送る海運と利根川水運との接点にあたり,物資の積替え港として発展。明治時代末期から沖合い・遠洋漁業の根拠地として発展し,39年に銚子漁港が完成。現在市内には二大醤油醸造工場があり,缶詰製造も盛ん。 62年銚子大橋が完成し,茨城県側との商業活動が活発化した。付近には犬吠埼,屏風ヶ浦など雄大な海岸景勝地があり,水郷筑波国定公園に属する。馬場町にある円福 (えんぷく) 寺は重要文化財の鐃 (にょう) を所蔵。 JR総武本線,成田線,国道 126号線が通じる。面積 84.20km2。人口 5万8431(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by