日本大百科全書(ニッポニカ) 「寛和の変」の意味・わかりやすい解説
寛和の変
かんなのへん
986年(寛和2)藤原兼家(かねいえ)が奸計(かんけい)によって花山(かざん)天皇の譲位を謀り、その結果娘詮子(せんし)の生んだ一条(いちじょう)天皇が即位、兼家が外戚(がいせき)として権力掌握に成功した事件。花山天皇の時代には関白藤原頼忠(よりただ)には政治の実権はなく、外戚の藤原義懐(よしちか)や天皇の皇太子時代の東宮学士であった藤原惟成(これしげ)らによって清新な政治が行われたが、天皇は寵愛(ちょうあい)していた女御(にょうご)忯子(しし)が亡くなって落胆していた。兼家は、一条天皇の即位を早めるため兼家の子道兼と僧厳久(げんきゅう)をして天皇に出家譲位を勧めさせ、道兼も出家を誓ってこれを唆した。天皇は花山寺において出家したが、道兼は巧みに逃れ出家しなかった。一条天皇が即位すると兼家が摂政(せっしょう)となり、その子孫が長く繁栄した。
[福井俊彦]
『今井源衛著『花山院の生涯』(1968・桜楓社)』