寺泊町(読み)てらどまりまち

日本歴史地名大系 「寺泊町」の解説

寺泊町
てらどまりまち

[現在地名]寺泊町寺泊

日本海沿岸に連なる海岸集落。北は白岩しろいわ村・野積のづみ村、東は渡部わたべ(現西蒲原郡分水町)、南は大和田おおわだ村。集落は南から北へ松沢まつざわ町・金山かなやま新道しんどう・*小川おがわ町・*上荒かみあら町・*かた町・*上片かみかた町・*おお町・*上田うえだ町・*あら町・*下荒しもあら町・町・*坂井さかい町・*いそ町・*白岩・*みなと町・チガヤ新川口しんかわぐち箕輪みのわと続く(*印は近世の宗門人別帳などにみえる町名)。「延喜式」兵部省北陸道越後国駅馬の「渡戸わたりへ(船二疋)に比定され、また渡部をその遺称地とする。佐渡国の国津まつさき(現佐渡郡畑野町)とを結ぶ越後の国津とされる。「袖中抄」弘仁一三年(八二二)に国分寺尼法光が百姓済度のため「越後国古志郡渡戸浜」に布施屋を建て、墾田四〇町余と渡船二艘を施して、往還の人を穏便ならしめたとある。また「義経記」巻七には「米山を沖懸に三十三里のかりやはまかつき、しらさきを漕ぎ過ぎて、寺お泊に船を著け、くりみやいしを拝みて」とみえる。承久の乱の結果佐渡国配流となった順徳院は、承久三年(一二二一)七月「寺泊」より佐渡へ渡った(承久記)。片町に船出の場所と伝えるおうがある。「吾妻鏡」元仁元年(一二二四)二月二九日条には「寺泊浦」に漂着した高麗人につき北陸道守護職の北条朝時が幕府に報告を行っている。下荒町に高麗人漂着の場所と伝える唐船澗がある。また文永八年(一二七一)には日蓮が「寺泊津」より佐渡へ配流となっている(寺泊御書「昭和定本日蓮上人遺文」)。寺泊津は弥彦やひこ神社とのかかわりも深く、年未詳の弥彦神社縁起断簡(高橋文書)や文明三年(一四七一)の伊弥彦神条式写(同文書)には神社造営に関し「寺泊津之御上分」は往古より懈怠なく行われているとあり、その内容は続いてみられる「御造宮御材木」を佐渡国より取寄せるとある記事とかかわるものと考えられる。「李花集」によると、興国二年(一三四一)に宗良親王が寺泊に留ったとある。

年欠の五月二五日河上久能書状(上杉家文書)によると、古志こし郡内のどこかに本拠を置いていた河上久能は古志長尾氏の重臣庄田内匠助に宛て、領中雑務について「御近所義候」をもって長尾氏の扶助を得られれば、限りなく奉公する旨伝えている。


寺泊町
てらどまりまち

面積:五八・二八平方キロ

郡の最北端に位置し、西は日本海、南は出雲崎いずもざき町・和島わしま村・与板よいた町、東は信濃川を境に南蒲原みなみかんばら中之島なかのしま村・西蒲原郡分水ぶんすい町、北は大河津おおこうづ分水(新信濃川)で分水町と大河津分水河口部右岸弥彦やひこ山の峰をもって西蒲原郡弥彦村・岩室いわむろ村と接する。中央を島崎しまざき川が北東流して大河津分水に注ぐ。川の両岸水田が広がる。西は西山丘陵北端部にあたり、日本海側は狭い海岸平野となる。東も三島みしま丘陵の北端部にあたる。古代北陸道の伊神いかみの駅が当町内に比定される。中世・近世にも島崎川・信濃川の舟運を控えて、水陸交通の要地であり、丘陵部には中世城館跡が数多く残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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