織豊期~江戸初期の武将。上杉景勝の執政。越後魚沼郡上田庄(現,新潟県南魚沼市,南魚沼郡)出身の樋口兼豊の子に生まれ,はじめ樋口与六と称した。幼少から景勝の側にあり,景勝が謙信の養子となると春日山に移り,謙信急死後の御館の乱では景勝を助けて勝利に導き,執政の一人として景勝を補佐した。1583年(天正11)三島郡与板を領した直江家の名跡を継ぎ,山城守を称し,94年(文禄3)には5万余石を領する大身となり,与板衆,上田衆,信濃新参衆を駆使して国政を独裁した。石田三成,本多正信らと親交を結び,外交にも手腕を発揮した。98年(慶長3)豊臣秀吉は景勝を会津若松に移封したが,その130万石のうち30万石は兼続に与えられた。秀吉の没後は石田三成に与党して徳川家康に対抗し,1600年には会津に挙兵した。関ヶ原の戦後,上杉家も家康に下り,出羽米沢30万石に減封されたが,これは兼続の旧領に上杉氏全体を封じこめたものであった。この間,兼続は本多正信との関係をもとに親徳川大名化を進め,大坂の陣には参陣して戦功をあげ徳川氏の信頼を得て家禄の維持に成功した。
上杉氏の越後時代には,家臣団統制の強化をはかり,支城在番制をしいて領国内の統治をすすめた。小田原参陣など豊臣政権下の軍役奉仕のため,検地の実施,石高制の採用による知行制と軍役の調整・整備,上方駐在・朝鮮出陣などにともなう通商関係の掌握,灌漑・排水工事や新田開発,さらに当時領国経済にとって最大の収益をもたらした鉱山開発など行財政,軍事・外交,殖産興業とあらゆる面に及んだ。米沢期は,関ヶ原敗戦後の処理,とりわけ減封による家中の整理が課題となったが,譜代の家臣を減ずることなく,米沢藩の基礎を固めることに成功した。自身学芸を好み,宋版の《史記》《漢書》《後漢書》(重要文化財)は兼続の蔵書だったものだし,《文選》30冊の刊行を行うなど文化的な業績にもみるべきものが多い。
執筆者:阿部 洋輔
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(小和田哲男)
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戦国期~近世初頭の武将。越後(えちご)上田(うえだ)城主長尾政景(ながおまさかげ)の家士、樋口(ひぐち)氏の長男で、幼名与六。22歳のとき、上杉家の重臣で与板(よいた)城主直江氏の嗣子(しし)となる。23歳で山城守(やましろのかみ)を称し、越後の戦国大名上杉景勝(かげかつ)の執政として、検地総奉行(そうぶぎょう)、蔵入地(くらいりち)奉行のほか軍事面でも大きな手腕を振るった。1598年(慶長3)、上杉氏の会津移封の際は6万石(米沢(よねざわ)城主)の知行(ちぎょう)を与えられ、1601年(慶長6)、関ヶ原の戦いで減封となった米沢藩(30万石)上杉氏の執政としても藩政確立の総指揮にあたった。治政・軍事両面で知将として知られ、好学の武将として有名。漢詩を詠み、朝鮮出征を機に漢籍を収集し、直江版とよばれる出版事業をおこした。米沢には、学問所禅林寺を創建している。
[横山昭男]
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…新潟県中部,三島(さんとう)郡の町。人口7484(1995)。越後平野南西部,信濃川西岸にあり,西部は東頸城(ひがしくびき)丘陵の北東端が占める。近世は信濃川舟運(長岡船道(ふなどう))の重要な河港であり,越後屈指の豪商を輩出した。1879年には三島郡役所が置かれ,郡の中心となったが,鉄道網が整備されるにしたがい河川交通は衰えた。産業は,農業よりも商工業の比重が高く,なかでも戦国期の刀鍛冶の流れをくみ近世中期に始められた与板刃物は,特産として知られる。…
※「直江兼続」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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