寺田屋騒動(読み)てらだやそうどう

精選版 日本国語大辞典 「寺田屋騒動」の意味・読み・例文・類語

てらだや‐そうどう‥サウドウ【寺田屋騒動】

  1. 文久二年(一八六二)、有馬新七、田中謙助らの薩摩藩士が、関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義の殺害を計画して京都伏見の船宿寺田屋で会合中、島津久光の命をうけた奈良原繁らに襲われ、殺害された事件。久光の公武合体・幕政改革政策派と、有馬ら尊攘激派の対立が生んだもの。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「寺田屋騒動」の解説

寺田屋騒動
てらだやそうどう

1862年(文久2)4月鹿児島藩尊攘派が京都伏見の寺田屋で鎮圧された事件。同年3月鹿児島藩主島津忠義の父久光は公武合体実現のため藩兵1000を率いて上洛。尊攘派も攘夷討幕の好機とみて京に集結した。久光は自重を求めたが,有馬新七を中心とする同藩尊攘派30余人は従わず,挙兵の機会をうかがい,船宿寺田屋に集結。久光は4月23日激派を鎮圧するため鎮使8名を寺田屋に派遣,有馬らの行動を止めようとしたがはたせず,同藩士どうしの斬り合いとなった。激派は数人が討死あるいは刑死し,同藩の尊攘運動は消滅した。この事件は尊攘派の憤激かい,以降,尊攘運動は公武合体運動と激しく対立する。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寺田屋騒動」の意味・わかりやすい解説

寺田屋騒動
てらだやそうどう

幕末の文久2 (1862) 年4月 23日有馬新七ら薩摩藩尊攘派志士が鎮圧された事件。有馬らは当日,公武合体派の関白や所司代襲撃計画を立てたが,上京中の島津久光が派遣した鎮撫隊により,京都伏見の船宿寺田屋で殺害された。

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