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寺田屋事件 テラダヤジケン

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

寺田屋事件

寺田屋の2階で寝ようとしていた坂本龍馬が伏見奉行所の襲撃を受けた。龍馬が家族にあてた手紙などによると、龍馬はピストルで応戦し、護衛の長府藩士・三吉慎蔵、恋人のお龍(りょう)を連れて薩摩藩邸に逃げたとされる。

(2009-12-16 朝日新聞 朝刊 2社会)

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百科事典マイペディアの解説

寺田屋事件【てらだやじけん】

1862年5月21日(文久2年4月23日)薩摩(さつま)鹿児島藩尊攘派志士に対する島津久光の弾圧事件。鹿児島藩尊攘派の有馬新七らは久光上洛の報に,彼を擁して討幕挙兵を行うことを計画したが,彼の目的が雄藩連合,公武合体にあるのを知り,単独で佐幕派の関白九条尚忠(ひさただ)らの暗殺を計画。
→関連項目清川八郎平野国臣真木和泉

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世界大百科事典 第2版の解説

てらだやじけん【寺田屋事件】

1862年(文久2)4月23日,京都伏見の船宿寺田屋で尊攘激派志士が鎮圧された事件。薩摩藩主の父にあたる島津久光は幕府と長州藩による公武合体策の失敗後,雄藩連合による公武合体たて直しをめざして上京した。薩摩藩士有馬新七,田中謙助大山巌西郷従道,三島通庸らと浪士の清川八郎,田中河内介,真木和泉らは,これを機会とみて京都に集まり,佐幕派の関白九条尚忠,所司代酒井忠義殺害の計画を立てた。この動きを察知した久光は激派志士たちが寺田屋で会合中をねらい,同藩士奈良原繁大山綱良ら9人を鎮圧のために派遣。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

寺田屋事件
てらだやじけん

1862年(文久2)4月23日深夜、京都伏見(ふしみ)の、薩摩(さつま)藩船宿(ふなやど)寺田屋伊助方で、薩摩藩士有馬(ありま)新七以下尊攘(そんじょう)激派が、薩摩藩兵に殺害された事件。薩摩藩主茂久(もちひさ)の父島津久光(ひさみつ)は、坂下門外の変後、一橋慶喜(よしのぶ)、松平慶永(よしなが)を中心とする雄藩連合体制による幕政改革と公武合体の推進に乗り出した。一方、薩摩藩士有馬新七、田中謙助、柴山愛次郎、橋口壮介らは、公卿(くぎょう)中山家家士田中河内介(かわちのすけ)、豊後(ぶんご)岡藩士小河一敏(おがわかずとし)、久留米(くるめ)の神官真木保臣(まきやすおみ)(和泉(いずみ))、庄内(しょうない)郷士清河(きよかわ)八郎ら激派と結んで、大坂、京都に集結、久光の入京を機に挙兵し、安藤信正(のぶまさ)の政権を倒し、安政(あんせい)の大獄で謹慎中の公卿や諸藩主の復権を図り、幕府の大改革を実現しようとした。水戸、長州、熊本など、さらに広い挙兵も呼びかけたが、各藩では藩士の動きを抑えた。久光は4月16日に入京し、近衛忠煕(このえただひろ)の関白就任をはじめ、志士たちの要求を先取りする内容の建議を示し、幕閣改造のために江戸に向かおうとしたが、志士たちの動きを「暴発」として抑えた。志士たちの間にも分裂があり、結局、有馬らの薩摩藩士十数名と、真木、田中らが、4月23日、関白九条尚忠(ひさただ)と京都所司代酒井忠義(ただよし)の殺害を決行するため伏見に集結。久光は、奈良原喜八郎(ならはらきはちろう)(繁)ら9名を伏見に送り、「上意討ち」を命じた。乱闘の結果、有馬、柴山、橋口ら6名が殺され、2名が重傷を負った。田中河内介も鹿児島へ護送中、播磨灘(はりまなだ)で殺された。久光の役割は朝廷から高く評価され、幕府に近かった関白九条尚忠は辞任した。さらに久光は、勅使大原重徳(しげとみ)を擁して江戸に下り、一橋慶喜の将軍後見職、松平慶永の政事総裁職就任を実現させた。[河内八郎]

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