島津久光(読み)しまづひさみつ

精選版 日本国語大辞典 「島津久光」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐ひさみつ【島津久光】

江戸末期の薩摩藩主斉興の子で、斉彬の異母弟。忠義の父。父斉興の死後、斉彬との御家騒動で敗れたが、斉彬死後、遺命によって子の忠義が藩主となった後は国父として実権を握った。尊攘派を弾圧する一方、幕政改革を実行公武合体派の主柱であった。明治七年(一八七四左大臣に就任したが、保守性が強く、まもなく帰国、隠退した。文化一四~明治二〇年(一八一七‐八七

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デジタル大辞泉 「島津久光」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐ひさみつ【島津久光】

[1817~1887]江戸末期の政治家薩摩さつまの人。斉彬なりあきらの異母弟。忠義の父。斉彬の死後、子の忠義が藩主となったのちは藩政の実権を握った。藩内尊攘そんじょう派を弾圧して公武合体に奔走。明治7年(1874)左大臣になったが、まもなく帰国して隠退。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島津久光」の意味・わかりやすい解説

島津久光
しまづひさみつ
(1817―1887)

幕末・明治初期の政治家。文化(ぶんか)14年10月24日、薩摩(さつま)島津氏27代当主斉興(なりおき)の三男に生まれた。母は側室お由良(ゆら)。山城(やましろ)、周防(すおう)、和泉(いずみ)、三郎などと称した。一門重富(しげとみ)島津家を嗣(つ)ぐ。1858年(安政5)長男茂久(もちひさ)(のち忠義(ただよし)と改名)が29代当主となったので、久光が藩政の実権を握った。1861年(文久1)宗家に復帰、1862年朝廷(公)と幕府(武)との政治的対立を調停して開国後の内外危機に対応できる体制を造出する目的で公武合体運動に着手、勅使大原重徳(おおはらしげとみ)を擁して幕政改革を実現し一躍名声をあげた。その間、藩内尊攘(そんじょう)激派を弾圧(寺田屋事件)。幕末政局には反幕諸侯グループのリーダーとして活躍した。1862年には久光の行列をめぐる生麦(なまむぎ)事件が発生、薩英戦争に発展した。維新後は旧公家(くげ)・大名勢力の中心的存在となり、1873年(明治6)内閣顧問、1874年左大臣となったが1875年辞任。以後、修史の業に従事し、1884年公爵。明治20年12月6日病死し国葬となった。

[毛利敏彦]

『日本史籍協会編『島津久光公実紀』全3巻(2000・東京大学出版会)』『町田明広著『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ)』


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百科事典マイペディア 「島津久光」の意味・わかりやすい解説

島津久光【しまづひさみつ】

幕末の薩摩(さつま)鹿児島藩主島津斉彬(なりあきら)の異母弟で,斉彬を継いだ忠義の実父。藩主となった忠義の後見役〈国父〉として藩政の実権を握った。急進派と佐幕保守派の両者を排して朝廷と幕府との間を妥協させようとする公武合体派の中心人物であり,その立場から1862年寺田屋事件で倒幕派志士を弾圧し,さらに勅使大原重徳を擁して江戸に向かい幕政の改革を行った。江戸からの帰国の途生麦(なまむぎ)事件が起こり,薩英戦争の因となった。文久3年8月18日の政変では会津藩と結んで長州勢,尊攘派公家を朝廷から追放した。維新後は,1874年から左大臣を務めたが,その保守的意見が重用されず1875年辞官。→島津忠義
→関連項目お由羅騒動小松帯刀西郷隆盛島津氏

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朝日日本歴史人物事典 「島津久光」の解説

島津久光

没年:明治20.12.6(1887)
生年:文化14.10.24(1817.12.2)
幕末の薩摩藩指導者。父は藩主島津斉興,母は側室由羅。号は双松,大簡,玩古道人,無志翁など。斉興の継嗣をめぐり久光と異母兄斉彬のそれぞれを擁立する抗争(お由羅騒動,高崎崩れ,嘉永朋党事件などと称する)を生じたが,結局斉彬が嗣ぎ,次いで斉彬の遺命により久光の実子・忠義が藩主となる。久光は生後間もなく種子島領主の養子に出されたが,のちに本家に戻り,さらに一門の島津忠公の養子となり天保10(1839)年大隅国重富領1万4000石を相続した。弘化年間(1844~48)に外国軍艦の来航する事態を迎えて藩政に参与し始める。藩主に就任した忠義の要請で本家に復帰すると,国父と称され藩政の実権を掌握した。開国後の政治情勢の中で尊攘を唱える,いわゆる誠忠組の青年の中から大久保利通を抜擢し,中央政局への参加を図った。そして,文久2(1862)年西郷隆盛に先発を命じ(西郷はのち独断で京を目指したため遠島処分),率兵上京した。斉彬の遺志を継いで公武合体を構想し,寺田屋騒動(1862)で藩内尊攘激派を弾圧し,次いで勅使大原重徳を奉じて江戸に行き,一橋慶喜の将軍後見職就任などの幕政改革に寄与した。その帰途生麦事件を起こし,翌年薩英戦争(1863)を招いたが,薩摩軍の勇戦により朝廷から撃攘の功を賞されている。 薩英戦争後,8月18日の政変を主導し参予会議に加えられ公武合体を目指し続けたが,同会議の解消により行き詰まってしまった。難局打開のため大久保と赦免した西郷を用いたが,結局,両人により公武合体は次第に後退し,倒幕への道が開かれた。維新後,守旧的傾向を保持し続け新政府の開明政策を批判し,明治5(1872)年天皇巡幸の際に鹿児島でその趣意を建白している。西郷が下野したのち6年上京,内閣顧問,翌7年には左大臣にそれぞれ任命されたが,結局欧化政策や三条実美,岩倉具視らを批判する上奏を行い辞職,帰国した。西南戦争(1877)の際には,西郷軍に加担する気配を全くみせていない。17年公爵となり,晩年は修史事業を進めた。<参考文献>島津公爵家編輯所編『島津久光公実記』

(長井純市)

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改訂新版 世界大百科事典 「島津久光」の意味・わかりやすい解説

島津久光 (しまづひさみつ)
生没年:1817-87(文化14-明治20)

幕末の薩摩藩主忠義の実父。父は斉興(なりおき),母は側室お由羅。1858年(安政5)兄斉彬(なりあきら)の遺命で忠義が襲封すると後見となり,藩政の実権を握る。62年(文久2)大兵を率いて上京し,斉彬の遺志を継ぎ公武合体運動を展開。有馬新七ら尊攘派を鎮圧し(寺田屋事件),勅使大原重徳を奉じて江戸に下り,幕政改革を求め成功した。帰途生麦事件が起こり,翌年7月薩英戦争となった。文久3年8月18日の政変には会津と結んで長州藩,尊攘派公家を朝廷から追放し,朝議参与となり公武合体の政治を遂行しようとして失敗。すでに時勢は倒幕の方向へ急転回していたので,以後の禁門の変,第1次・第2次長州征伐には西郷隆盛,大久保利通らに政局をゆだねた。維新後は新政府の諸改革に不満で,73年西郷の下野後に内閣顧問や左大臣に任ぜられたが,保守的意見がいれられず75年帰国,隠退した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島津久光」の意味・わかりやすい解説

島津久光
しまづひさみつ

[生]文化14(1817).10.20. 鹿児島
[没]1887.12.6. 鹿児島
江戸時代後期の薩摩藩主忠義の父。斉興の5男。幼名普之進,のち又次郎,山城,周防,和泉など。叟松,頑古道人と号した。お由良騒動 (→高崎崩れ ) で異母兄斉彬に敗れ,一時重富家を継いだが,斉彬の死後実子の忠義が藩主になるに及んで宗家に帰り,「国父」として藩政の実権を握り,また国事に活躍。文久2 (1862) 年3月藩兵を率いて上洛,幕政改革を朝廷に建白,寺田屋騒動で尊攘派志士を弾圧,一方勅使大原重徳を擁して東下し,幕政改革を幕府に迫り,朝幕の妥協による公武合体を主張した。文久三年八月十八日の政変で長州尊攘派が京都から追放されたあと朝廷で重んじられ,元治1 (64) 年一橋慶喜らと幕政,朝政に参与として加わり活躍したが,やがて西郷隆盛,大久保利通らの王政復古への指導権の強まるなかで藩地に隠退,征韓論の分裂で西郷らが下野し,中央政府が弱体化すると請われて 1873年 12月内閣顧問,翌年4月には左大臣に就任したが,封建的思想から抜けきれず,西洋心酔に反対し,また強い排外論者でもあったため用いられず,76年,辞官した。 84年公爵。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「島津久光」の解説

島津久光
しまづひさみつ

1817.10.24~87.12.6

幕末期の薩摩国鹿児島藩主忠義の実父。父は斉興。1858年(安政5)兄斉彬(なりあきら)の遺命で子忠義が相続し,のち国父として藩政の実権を掌握。大久保利通を信任し,藩内の動揺を収めた。斉彬の遺志を継いで,公武合体周旋のため62年(文久2)率兵して入京し,寺田屋騒動では藩内過激派を弾圧。勅使大原重徳(しげとみ)を擁して出府し,幕政改革を実行させた。帰途生麦事件が発生し,薩英戦争をひきおこした。63年の8月18日の政変後は京都で国事周旋に尽力するが,徳川慶喜(よしのぶ)と意見があわず帰国,後事を西郷隆盛に託した。71年(明治4)の廃藩置県を不本意として鹿児島にとどまる。74年左大臣。76年帰国・隠退し,西南戦争では中立を守った。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島津久光」の解説

島津久光 しまづ-ひさみつ

1817-1887 幕末-明治時代の武士。
文化14年10月24日生まれ。島津斉興(なりおき)の5男。母はお由羅。薩摩(さつま)鹿児島藩重富領主。異母兄斉彬(なりあきら)の遺命で子の忠義が鹿児島藩主となると,本家に復帰して国父とよばれ藩政の実権をにぎる。文久2年(1862)兵をひきいて京都にはいり,藩の尊攘(そんじょう)過激派を弾圧(寺田屋事件)。また,勅使大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸に行き幕政改革を実施させるなど,公武合体運動をすすめる。帰途,生麦事件が発生し,薩英戦争をまねいた。維新後,内閣顧問・左大臣に就任したが,保守的意見がいれられず,明治8年隠退した。明治20年12月6日死去。71歳。初名は忠教。通称は又次郎。号は双松など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「島津久光」の解説

島津久光
しまづひさみつ

1817〜87
幕末の政治家
薩摩藩主斉彬 (なりあきら) の異母弟。斉彬死後,久光の子忠義を藩主にたて実権を握った。1862年兵を率いて上京し,寺田屋騒動で薩摩藩尊攘派を制圧。勅使大原重徳 (しげとみ) を奉じて江戸に下り幕政改革に参与するなど,'64年まで公武合体派の中心として活動した。新政権発足後,征韓論での分裂を抑えるため一時左大臣となったが,まもなく辞任。

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世界大百科事典(旧版)内の島津久光の言及

【お由羅騒動】より

…江戸後期の島津家の継嗣をめぐる紛争。二十数年にわたる天保の藩政改革に人心はうみ,また1844年(弘化1)以来の英米仏による薩摩藩属領琉球への開国強請に危機感がみなぎっていた。48年(嘉永1)には世子斉彬(なりあきら)は40歳の壮齢であったが,斉興は藩主の座を譲らなかった。斉興や家老調所(ずしよ)広郷の考えでは〈斉彬の世になれば曾祖父重豪(しげひで)にならって,蘭癖のため藩庫をからにするであろう〉と,藩の前途を危ぶんでいたのである。…

【尊王攘夷運動】より

…当時の尊攘派の理論的リーダーであった真木和泉をはじめ,平野国臣,清川八郎,田中河内介,有馬新七,田中謙助らが代表的な志士であった。同年3月,尊攘派の声望の高かった島津久光が,兵を率いて京都へ入った。しかし彼は,幕政改革を通じて幕府を攘夷へ向かわせようという立場であったので,急進的な攘夷には反対し,尊攘挙兵を企てた有馬らを,4月,伏見の寺田屋で斬った。…

【寺田屋事件】より

…1862年(文久2)4月23日,京都伏見の船宿寺田屋で尊攘激派志士が鎮圧された事件。薩摩藩主の父にあたる島津久光は幕府と長州藩による公武合体策の失敗後,雄藩連合による公武合体たて直しをめざして上京した。薩摩藩士有馬新七,田中謙助,大山巌,西郷従道,三島通庸らと浪士の清川八郎,田中河内介,真木和泉らは,これを機会とみて京都に集まり,佐幕派の関白九条尚忠,所司代酒井忠義殺害の計画を立てた。…

※「島津久光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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