小堀正次(読み)こぼり まさつぐ

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小堀正次」の解説

小堀正次 こぼり-まさつぐ

1540-1604 織豊-江戸時代前期の武将,大名
天文(てんぶん)9年生まれ。小堀正房の子。小堀遠州の父。浅井長政,豊臣秀吉につかえ,ついで徳川家康にしたがう。関ケ原の戦いののち大和(奈良県)などの旧領のほか備中(びっちゅう)(岡山県)松山1万石をくわえられ,1万4460石の大名となった。慶長9年2月29日死去。65歳。通称は新助。名は政次ともかく。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の小堀正次の言及

【小堀氏】より

…近世大名。戦国期,近江坂田郡小堀村(現,長浜市)より興る。浅井氏滅亡後,正次は羽柴(豊臣)秀長に属し,その死後秀吉に仕え大和,和泉に5000石を領した。関ヶ原の戦では東軍に属し備中に1万石を加増される。その子政一(遠州)は1604年(慶長9)遺領を継ぎ,のち近江に移封となり,備中・近江などの国奉行や伏見奉行を歴任した。また茶道遠州流の祖として知られ,作事奉行として造庭にも手腕を発揮した。その後,代々近江小室を領したが,1788年(天明8)政方の代に伏見奉行としての失政を問われ改易された。…

【備中国】より

… 約35万石の備中国の幕藩体制下での支配形態は,比較的に山がちの分断的な地勢と,戦国末期における諸勢力角逐の余波などによって,統一支配が阻まれて必然的に分権的となったものと思われる。まず,小堀正次は関ヶ原の戦では徳川氏に仕えたので,旧知行のほか備中国内で1万石加増され,備中代官として松山城に入って国務を沙汰することになり,その子政一(遠州)も備中代官として松山に在城したことがある。ついで鳥取城主池田長幸が1617年(元和3),6万5000石を領して松山に入城して松山藩を立藩した。…

※「小堀正次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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