クロムウェル(読み)くろむうぇる(英語表記)Thomas Cromwell

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クロムウェル」の意味・わかりやすい解説

クロムウェル(Oliver Cromwell)
くろむうぇる
Oliver Cromwell
(1599―1658)

イギリスピューリタン革命指導者

庶民院議員になるまで

国王ヘンリー8世の側近だったT・クロムウェルの血統を受け継ぐハンティンドンの地方ジェントリの家に4月25日生まれた。ケンブリッジ大学のシドニー・サセックス・カレッジに学び、そこでピューリタニズムの影響を受けたが、1617年、父の死にあたって所領経営に専念すべく、学位をとらずに大学を去った。その後23年間、ハンティンドンで積極的に農業経営に取り組むとともに、他方、治安判事として、フェンランドの干拓に反対していた農民を守って、ベッドフォード公の代理人と闘った。その間、1620年に結婚、また1628年には庶民院(下院)議員に選出されたが、目だった活動はしていない。1640年、ケンブリッジから短期議会および長期議会の議員に選出されると、国王反対派の立場に立って論陣を張ったものの、けっしてその中心になることはなかった。

[小泉 徹]

軍事指導者として

1642年、国王チャールズ1世と議会との間に武力抗争が始まると、クロムウェルは国王軍に対して州を守るべく立ち上がった。エッジヒルその他の戦闘で議会軍の訓練不足を痛感し、東部諸州から熱烈なピューリタンを集めて厳格な訓練を施し、自ら騎兵を率いて戦った。その効果はマーストン・ムア(1644)、ネーズビー(1645)の両戦闘で遺憾なく発揮され、「鉄騎隊」Ironsideの名称とともに彼の名声を高めた。その結果、第一次内戦が終了した時点で、もっとも有力な議会派指導者の一人となり、軍の力を背景として、当時庶民院の実権を握っていた長老派と対立することになった。1646年から1647年にかけての、議会、国王、軍、スコットランド間の複雑な交渉の過程でとった態度はかならずしもはっきりしないが、最終的には女婿であったアイアトンの提案した「提案要綱」を支持して、長老派、レベラーズ(水平派、平等派)と対決した。その後1648年に国王がスコットランドと密約を結び、第二次内戦が起こると、プレストンで国王軍を打ち破り、軍の発言力をさらに高めた。彼がチャールズ1世の処刑(1649)に対してとった態度については議論が分かれるが、結局は国王に対する軍の不信に同調したように思われる。また、1648年12月、プライド大佐の指揮のもとに長老派議員が議会から追放され、残った議員によってランプ議会残部議会)が成立すると、軍の力を背景にしながらもこの議会を支持して、共和制を持続させようとした。彼はバーフォードでレベラーズの残党を一掃(1649.5)、アイルランドの反乱を鎮圧(1650)し、スコットランドの侵入軍を食い止めた。しかし1653年、ランプ議会の進行に不満を抱いた彼は、軍隊を率いて議員を議場から追い出し、信仰の厚い者を指名して「聖者」による支配を試みるに至った。

[小泉 徹]

護国卿として

1653年から死に至るまでの護国卿(きょう)政権時代、彼の生涯はほぼイングランドの歴史に重なり合う。対外的にはイングランドの国威を発揚するとともに、国内的には「聖者」による正義に基づく寛容な支配を行いつつ、同時に地方の有力者の支持を取り付けて、同意に基づく支配を行おうとした。対外政策は、イギリス・オランダ戦争の有利な解決、他のプロテスタント諸国との友好関係の確立をはじめとして一定の成果をみたが、国内の支配はいっこうに安定しなかった。「聖者」は結局社会の少数派だったからである。全国を最初11、のちに12の軍管区に分けて、それぞれに「軍政官」を置くことなどを試みたが、それも在地の有力者との乖離(かいり)を引き起こす結果になった。1657年、議会がクロムウェルに対して出した「謙虚な請願と勧告」は、彼が王位につくことを望んでいたが、彼は最終的にこれを拒否し、翌1658年9月3日、第3子リチャードを後継者に指名して世を去った。

[小泉 徹]

評価

死後、クロムウェルに対する評価は時代とともに揺れ動き、国王に対する反逆者にもなれば、ピューリタン革命の英雄にもなった。しかし彼の果たした役割はかなりはっきりしている。その意図が「神の義」の実現にあったにせよ、結果としてみれば、土地所有者の利害を守りながら、教会国家体制を打破して、イギリスにおける地主寡頭制支配に道を開くことになった。自らの意図を裏切ってイギリス「近代社会」の扉を開くことになったのである。(書籍版 1986年)
[小泉 徹]

『今井宏著『クロムウェル――ピューリタン革命の英雄』(1972・清水書院)』『矢内原忠雄著『続 余の尊敬する人物』(岩波新書)』


クロムウェル(Thomas Cromwell)
くろむうぇる
Thomas Cromwell
(1485ころ―1540)

イギリスの政治家。国王ヘンリー8世を助けてイングランド教会の樹立に貢献した。貧家に生まれて諸所を放浪、イタリアにも暫時滞在し、傭兵(ようへい)の経験も積んだとされる。ウルジーに拾われて出世の手づるをつかみ、1523年には議会に出る。ウルジーの失脚後は王の注目を得ることに努めて成功、1530年に早くも側近の地位についた。1534年に王の秘書長官、1536年には玉璽尚書(ぎょくじしょうしょ)となり、その間国政を掌握して宗教改革の推進を図った。国内における教皇権力を否定して国王の政教両面に及ぶ至上権を確立するという方向は、彼の頭脳から出たとみてよい。1535年以降は修道院の解散に取り組み、みごとな成功を収めた。ドイツ諸侯との同盟を求めてクレーフェ公国の王女アンを国王にめあわせたが、このことからのちに王の不興を招き、反対派の策動もあって1540年7月に逮捕、7月処刑された。彼は君主専制の信奉者とみられやすいが、むしろ「議会における国王」体制の支持者ではないかとする新説も出ている。

[植村雅彦]


クロムウェル(ユゴーの韻文劇)
くろむうぇる
Cromwell

フランスの作家ユゴーの五幕韻文劇。1827年作、同年初演。イギリスの宰相クロムウェルは権勢拡大を目ざして王冠に野心を抱き、議会もこれを承認しようとするが、一夜、歩哨(ほしょう)に変装して反対派陰謀の事実をつかみ、結局戴冠式(たいかんしき)当日劇的に王冠を辞退して人望を高める。幕切れの独白は「されば余が王たらんはいつの日ぞ?」。作品自体は長すぎて上演不能だったが、序文はロマン主義宣言書として著名。その主張は、原始以来の歴史を叙情詩、叙事詩、ドラマの三つの時代に分け、劇的葛藤(かっとう)の根幹をキリスト教的二元論に置くことで現代こそドラマの時代と規定した。古典主義演劇の諸規則をほぼ全面否定し、地方色、歴史色を尊重して主題の更新を、また十二音綴詩句(アレクサンドラン)を柔軟化して文体の刷新を唱えた。

[佐藤実枝]


クロムウェル(Richard Cromwell)
くろむうぇる
Richard Cromwell
(1626―1712)

イギリスのピューリタン革命の指導者であったO・クロムウェルの第3子。兄弟が早世したために、1658年、父の死に際して護国卿(きょう)に指命された。しかし父のもつカリスマ的指導力をまったく欠いており、生来性格的にも弱かったので、議会と軍隊との対立を調整できず、1659年職を辞しパリに亡命、その統治はわずか8か月で終わった。帰国(1680)後は静かな余生を送ったといわれる。(書籍版 1986年)
[小泉 徹]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クロムウェル」の意味・わかりやすい解説

クロムウェル
Cromwell, Oliver

[生]1599.4.25. ハンチンドン
[没]1658.9.3. ロンドン
イギリスの軍人,政治家。イングランド共和国およびスコットランド,アイルランドの護国卿 (在任 1653~58) 。清教徒革命の指導者として知られる。清教徒のジェントリーの家に生れ,ケンブリッジ大学に学ぶ。 1628年下院議員。 40年短期議会長期議会議員に選出され,清教徒革命が勃発すると,軍人として議会軍に参加し,鉄騎兵を率いてマーストンムーアの戦いなどに活躍し,45年ニュー・モデル軍の副司令官となり,ネーズビーの戦いで勝利を収めた。その後は独立派の指導者として,長老派,平等派を押えて実権を握り,49年1月国王チャールズ1世を処刑し,次いでアイルランドとスコットランドに遠征 (49~51) して反対派を制圧。 53年に護国卿となり,最後には議会も解散し,軍人行政官を任命して独裁政治を行なった。彼の政治はきびしい清教主義に基づき,国内では不満を招いたが,オランダやスペインとの戦争に勝ってその後のイギリスの海上覇権の基礎を築いた。

クロムウェル
Cromwell, Thomas

[生]1485頃.ロンドン
[没]1540.7.28. ロンドン
イギリスの政治家。宗教改革の立案実行者。鍛冶屋兼縮絨業の家に生れたが,前半生には不明な点が多い。若いうちに大陸に渡り諸国で兵士,貿易商,金貸しなどを経験した。帰国後 T.ウルジーに認められ法律を学び,1523年議会に入りウルジーの側近として活躍したが,29年の彼の失脚後も巧みに立回って国王ヘンリー8世の信頼を得,短期間にめざましい昇進をとげ,ウルジーに代って事実上の筆頭顧問になった。また 35年以降大主教代理として修道院解散を断行し,その富を没収した。国王とアンの結婚をとりまとめ,エセックス伯に叙せられたが,アンに対する王の不満が一因となって失脚し,処刑された。 O.クロムウェルは遠い姻戚にあたる。

クロムウェル
Cromwell, Richard

[生]1626.10.4. ハンチンドン
[没]1712.7.12. ハーフォードシャー,チェスアント
イギリス,清教徒革命期の政治家。 O.クロムウェルの3男。護国卿政権下に議員,国務会議員をつとめ,父の指名によってその没後護国卿に就任 (1658.9.) 。穏和な人柄であったが政治力に乏しく,議会と軍隊の対立の板ばさみになって8ヵ月で辞職し,護国卿政権は崩壊。 1660年王政復古に際して偽名で亡命したが,80年帰国,隠居生活をおくった。

クロムウェル
Cromwell, Henry

[生]1628.1.20. ハンチンドン
[没]1674.3.23. ケンブリッジ
イギリス,清教徒革命期の軍人。 O.クロムウェルの4男。 1654年アイルランド派遣軍の部将となり,55年以降は事実上のアイルランド統治者。 59年護国卿政権の崩壊によって本国に召喚され,辞任して引退。

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