イギリス、ピューリタン革命の指導者。
国王ヘンリー8世の側近だったT・クロムウェルの血統を受け継ぐハンティンドンの地方ジェントリの家に4月25日生まれた。ケンブリッジ大学のシドニー・サセックス・カレッジに学び、そこでピューリタニズムの影響を受けたが、1617年、父の死にあたって所領経営に専念すべく、学位をとらずに大学を去った。その後23年間、ハンティンドンで積極的に農業経営に取り組むとともに、他方、治安判事として、フェンランドの干拓に反対していた農民を守って、ベッドフォード公の代理人と闘った。その間、1620年に結婚、また1628年には庶民院(下院)議員に選出されたが、目だった活動はしていない。1640年、ケンブリッジから短期議会および長期議会の議員に選出されると、国王反対派の立場に立って論陣を張ったものの、けっしてその中心になることはなかった。
[小泉 徹]
1642年、国王チャールズ1世と議会との間に武力抗争が始まると、クロムウェルは国王軍に対して州を守るべく立ち上がった。エッジヒルその他の戦闘で議会軍の訓練不足を痛感し、東部諸州から熱烈なピューリタンを集めて厳格な訓練を施し、自ら騎兵を率いて戦った。その効果はマーストン・ムア(1644)、ネーズビー(1645)の両戦闘で遺憾なく発揮され、「鉄騎隊」Ironsideの名称とともに彼の名声を高めた。その結果、第一次内戦が終了した時点で、もっとも有力な議会派指導者の一人となり、軍の力を背景として、当時庶民院の実権を握っていた長老派と対立することになった。1646年から1647年にかけての、議会、国王、軍、スコットランド間の複雑な交渉の過程でとった態度はかならずしもはっきりしないが、最終的には女婿であったアイアトンの提案した「提案要綱」を支持して、長老派、レベラーズ(水平派、平等派)と対決した。その後1648年に国王がスコットランドと密約を結び、第二次内戦が起こると、プレストンで国王軍を打ち破り、軍の発言力をさらに高めた。彼がチャールズ1世の処刑(1649)に対してとった態度については議論が分かれるが、結局は国王に対する軍の不信に同調したように思われる。また、1648年12月、プライド大佐の指揮のもとに長老派議員が議会から追放され、残った議員によってランプ議会(残部議会)が成立すると、軍の力を背景にしながらもこの議会を支持して、共和制を持続させようとした。彼はバーフォードでレベラーズの残党を一掃(1649.5)、アイルランドの反乱を鎮圧(1650)し、スコットランドの侵入軍を食い止めた。しかし1653年、ランプ議会の進行に不満を抱いた彼は、軍隊を率いて議員を議場から追い出し、信仰の厚い者を指名して「聖者」による支配を試みるに至った。
[小泉 徹]
1653年から死に至るまでの護国卿(きょう)政権時代、彼の生涯はほぼイングランドの歴史に重なり合う。対外的にはイングランドの国威を発揚するとともに、国内的には「聖者」による正義に基づく寛容な支配を行いつつ、同時に地方の有力者の支持を取り付けて、同意に基づく支配を行おうとした。対外政策は、イギリス・オランダ戦争の有利な解決、他のプロテスタント諸国との友好関係の確立をはじめとして一定の成果をみたが、国内の支配はいっこうに安定しなかった。「聖者」は結局社会の少数派だったからである。全国を最初11、のちに12の軍管区に分けて、それぞれに「軍政官」を置くことなどを試みたが、それも在地の有力者との乖離(かいり)を引き起こす結果になった。1657年、議会がクロムウェルに対して出した「謙虚な請願と勧告」は、彼が王位につくことを望んでいたが、彼は最終的にこれを拒否し、翌1658年9月3日、第3子リチャードを後継者に指名して世を去った。
[小泉 徹]
死後、クロムウェルに対する評価は時代とともに揺れ動き、国王に対する反逆者にもなれば、ピューリタン革命の英雄にもなった。しかし彼の果たした役割はかなりはっきりしている。その意図が「神の義」の実現にあったにせよ、結果としてみれば、土地所有者の利害を守りながら、教会国家体制を打破して、イギリスにおける地主寡頭制支配に道を開くことになった。自らの意図を裏切ってイギリス「近代社会」の扉を開くことになったのである。(書籍版 1986年)
[小泉 徹]
『今井宏著『クロムウェル――ピューリタン革命の英雄』(1972・清水書院)』▽『矢内原忠雄著『続 余の尊敬する人物』(岩波新書)』
イギリスの政治家。国王ヘンリー8世を助けてイングランド教会の樹立に貢献した。貧家に生まれて諸所を放浪、イタリアにも暫時滞在し、傭兵(ようへい)の経験も積んだとされる。ウルジーに拾われて出世の手づるをつかみ、1523年には議会に出る。ウルジーの失脚後は王の注目を得ることに努めて成功、1530年に早くも側近の地位についた。1534年に王の秘書長官、1536年には玉璽尚書(ぎょくじしょうしょ)となり、その間国政を掌握して宗教改革の推進を図った。国内における教皇権力を否定して国王の政教両面に及ぶ至上権を確立するという方向は、彼の頭脳から出たとみてよい。1535年以降は修道院の解散に取り組み、みごとな成功を収めた。ドイツ諸侯との同盟を求めてクレーフェ公国の王女アンを国王にめあわせたが、このことからのちに王の不興を招き、反対派の策動もあって1540年7月に逮捕、7月処刑された。彼は君主専制の信奉者とみられやすいが、むしろ「議会における国王」体制の支持者ではないかとする新説も出ている。
[植村雅彦]
フランスの作家ユゴーの五幕韻文劇。1827年作、同年初演。イギリスの宰相クロムウェルは権勢拡大を目ざして王冠に野心を抱き、議会もこれを承認しようとするが、一夜、歩哨(ほしょう)に変装して反対派陰謀の事実をつかみ、結局戴冠式(たいかんしき)当日劇的に王冠を辞退して人望を高める。幕切れの独白は「されば余が王たらんはいつの日ぞ?」。作品自体は長すぎて上演不能だったが、序文はロマン主義宣言書として著名。その主張は、原始以来の歴史を叙情詩、叙事詩、ドラマの三つの時代に分け、劇的葛藤(かっとう)の根幹をキリスト教的二元論に置くことで現代こそドラマの時代と規定した。古典主義演劇の諸規則をほぼ全面否定し、地方色、歴史色を尊重して主題の更新を、また十二音綴詩句(アレクサンドラン)を柔軟化して文体の刷新を唱えた。
[佐藤実枝]
イギリスのピューリタン革命の指導者であったO・クロムウェルの第3子。兄弟が早世したために、1658年、父の死に際して護国卿(きょう)に指命された。しかし父のもつカリスマ的指導力をまったく欠いており、生来性格的にも弱かったので、議会と軍隊との対立を調整できず、1659年職を辞しパリに亡命、その統治はわずか8か月で終わった。帰国(1680)後は静かな余生を送ったといわれる。(書籍版 1986年)
[小泉 徹]
イギリスの軍人,政治家,ピューリタン革命の指導者。イングランド東部ハンティンドンの,T.クロムウェルの末裔にあたるジェントリーの家系に生まれる。母親からピューリタンの信仰を受けつぎ,ケンブリッジのシドニー・サセックス・カレッジに学ぶ。ロンドンに出て法学院に席をおいたが,商人の娘と結婚して帰郷し,1628年下院議員に選出される。翌年議会が解散されたのちは,東部の各地で所領の経営にあたるとともに,この地方の干拓を進めようとする貴族に抵抗して農民の利益を守り,〈干拓地の王者King of the Fens〉の異名を奉られた。40年の短期議会,長期議会のいずれにも選出され,しだいに国王反対派の一員として頭角を現す。
42年第1次内乱が勃発すると,自らの騎兵隊を率いて議会軍に参加し,エッジヒルの戦で功をあげ,さらにピューリタニズムに基づく規律と戦闘意欲に秀でた騎兵連隊を編成し,各地で戦勝を収めて,劣勢にあった議会軍のために気をはいた。44年マンチェスター伯のもとで東部連合軍副司令官となり,マーストン・ムアの戦勝によって,その部隊は〈鉄騎隊Ironsides〉と呼ばれた。以後国王に対して徹底抗戦を主張する独立派のリーダーとして,マンチェスター伯ら長老派の妥協的な戦闘指導を批判し,議会軍の改革を主張した。45年議会軍が鉄騎隊にならって〈ニューモデル軍〉に改組されると,その副司令官に就任し,6月ネーズビーで国王軍にとどめを刺した。第1次内乱終結により議会派内部の対立が高まり,ことに下層兵士と結びついた水平派(レベラーズ)が民主主義的要求を掲げて勢力をのばすと,同年秋パトニーで討論会を主宰し妥協の道を探ったが,国王の脱走により第2次内乱となると,水平派と手を握って反革命勢力の打倒に全力をあげた。
内乱終結後,議会から長老派議員を一掃する〈プライド大佐によるパージ〉,さらに国王に対する裁判を支持し,自らも一員となった特別法廷は,国王チャールズ1世に死刑の判決を下し,49年1月処刑した。新政権は反革命の拠点アイルランドとスコットランドの征服を企てたが,給料の未払いを理由に従軍を拒否した水平派が反乱を起こすと,クロムウェルはこれを鎮圧してこれまでの同盟を解消した。ついでクロムウェルを司令官とする遠征軍はアイルランドで残虐行為と徹底的な収奪を行い,今日の〈アイルランド問題〉の原点を形づくった。51年秋にはスコットランドをも掃討して反革命の脅威を除去したが,航海法の制定を機に第1次英蘭戦争が勃発すると,53年高まる軍の不満を背景にして長期議会(ランプ議会)を武力解散した。その後推薦議員のみで構成された〈指名議会〉が社会改革に熱意をみせると自発的解散に追いこみ,同年末軍幹部の用意した憲法〈統治章典〉に従い,終身の護国卿 Lord Protectorに就任した。この護国卿政権は軍隊士官とピューリタンの独裁にほかならず,内外ともに批判勢力に取り囲まれていた。そこで55年全国に軍政官を配置し,軍事独裁の性格を強めたが,かえって政権に対する反発を強めた。混乱を恐れた議会は,王制に復帰しようとして57年クロムウェルに国王の称号の提供を申し出たが,彼は軍の猛反対にあい,断念した。革命の前途への懸念が深まっていた58年9月,病没した。死因はインフルエンザらしい。ウェストミンスター・アベーに埋葬された彼の墓は,王政復古後〈国王殺し〉の張本人としてあばかれた。
クロムウェルに対する評価は,その死後1世紀ほどは,悪人,野心的偽善者として芳しくないものであったが,19世紀大英帝国の確立とともに,専制君主への抵抗,対外積極政策,ピューリタニズムの諸点で再評価されるようになった。日本においては彼の生涯と業績は,主としてカーライルの《クロムウェルの書簡と演説》(1845)などを通して伝えられ,国王を処刑した〈ピューリタンの英雄〉として,明治時代の一部の知識人の生涯に決定的ともいえる影響を及ぼした。広範な社会活動を展開した小説家木下尚江の出発点には,松本中学の歴史の教室でのクロムウェルとの出会いがあったし,また教育勅語の発布を契機に起こった〈内村鑑三不敬事件〉(1891)の背後には,カーライルの書物を愛読した内村のクロムウェルへの傾倒があり,その後も内村はしばしばクロムウェルの生涯を論じている。なお日本で最初に彼の伝記を執筆したのは,竹越与三郎であって,その《格朗穵(クロムウェル)》は,1890年民友社から刊行された。
→ピューリタン革命
執筆者:今井 宏
イギリスのヘンリー8世期の政治家。青年期に外国で兵士,商人の経験をもち,帰国後トマス・ウルジーに仕え,庶民院議員(1523)となる。ウルジー失脚後も,枢密顧問官(1531),秘書官長(1534),宗務代官(1535),王璽尚書・男爵(1536),エセックス伯(1540)と栄進する。しかし1540年反対派の策謀によって失脚・処刑された。クロムウェルは議会法制定に尽力し,なかでも主権国家の宣言を行った〈上訴禁止法〉(1533)が有名である。宮廷役人による行政から国家行政部局による統治へと行政上の改革を行い,国家財政強化のため修道院解散を断行し,ドイツのルター派領邦と結ぶ外交政策を唱道・展開した。他方,ルター主義と人文主義にもとづく宗教改革をクランマー大主教とともに推進し,聖書の英訳・刊行事業を助け,とくに各教会に英訳大聖書の常備を命じた。また教区登録簿(洗礼,結婚,埋葬を記録)を各教会に備えさせ,主教区増設を図るなど,1530年代において特筆されるべき業績を残した。
執筆者:栗山 義信
イギリスの政治家,O.クロムウェルの三男。リンカン法学院に学び,父の護国卿政権下の議会に1654年以降議席を占め,オックスフォード大学総長,国務会議員の要職についた。58年,父の死後2代目の護国卿になったが,軍隊と議会の対立の激化するなかで事態を収拾できず,翌年軍隊により解任され大陸に亡命。王政復古期にはパリで匿名で暮らしたが,80年ごろ帰国し,以後隠遁生活を送った。
執筆者:今井 宏
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1599~1658
イングランドの政治家,ピューリタン革命の中心人物。東部のジェントリの家に生まれ,幼少よりピューリタン主義の影響を受けた。1628年下院議員となり,長期議会にも選出。ことに精鋭の騎兵隊(鉄騎隊)の指揮官として44年マーストン・ムアで戦勝を収め議会側の劣勢をはねかえし,独立派の中心人物として軍の改革を主張して長老派を批判した。ニューモデル軍の副司令官となり,45年ネーズビで決定的な勝利を得た。40年代後半には,レヴェラーズの民主的な要求を抑え,長老派を排除して独立派の政権の基礎を固め,国王裁判官の一人として処刑に賛成し,共和政を樹立した。アイルランド,スコットランドに遠征後,ランプ議会を武力解散し,53年末護国卿(在任1653~58)となり,独裁政権を組織した。58年9月病没。
1485頃~1540
イングランド宗教改革の遂行にあたった政治家。青年時代は大陸で兵士として従軍。帰国後ウルジーの秘書となり,国王ヘンリ8世の離婚問題を処理できなかったウルジーにかわって台頭し,議会制定法による解決を図り,上告禁止法(1533年),国王至上法(34年)によってイングランド国教会を確立するとともに,修道院解散を断行した。国家行政機構の改革も進めたが,ヘンリ8世の再婚問題で失敗し,処刑された。
1626~1712
オリヴァー・クロムウェルの三男。父の没後指名により護国卿に就任(在任1658~59)したが,凡庸で政治力に乏しく,軍隊と議会の対立を処理しえず8カ月で辞職。王政復古後大陸に逃れたが,80年頃帰国。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ブザンソンに生まれたが,教育はおもにパリで受け,少年時代から王党派の詩人として頭角を現した。1827年には,戯曲《クロムウェル》に付した有名な序文の中で古典主義の演劇を批判し,ロマン主義の文学運動に理論的な支柱を与えた。さらに30年には,ロマン派戯曲の典型である《エルナニ》を上演し,その後ロマン派が10年以上の間文壇で栄える契機をつくった。…
…
[軍事政策]
イギリスの常備軍は,ピューリタン革命中の1645年議会側が創設した〈新型軍(ニューモデル軍)〉に始まり,王政復古後は国王の正規軍として発達した。しかしクロムウェルが〈新型軍〉によってクーデタを起こし,軍事独裁をしいた苦い経験から,議会側は常備軍の動向をたえず警戒し,議会による軍隊の統制に配慮してきた。89年オラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)に認めさせた〈権利章典〉では,議会の承認なく平時に国内で常備軍を徴集することが禁止された。…
… 信仰義認論に始まり聖書原理に従ってサクラメントと教皇権とを否定するにいたるルター的な宗教改革の概念が,英国国教会についてもいえるかどうかは,やや疑問である。ここでは以前から教権と王権の対立が深く,ローマに対して地方教会的性格をもっていたが,ウィクリフのような反教皇主義をかかげる先駆者もいてアングリカニズムが強化され,1531年以後,T.クロムウェルの献策でヘンリー8世をイギリス教会の首長とし,その至上権を認めてローマ教皇からの独立がはたされた(国王至上法,1534)。王と教会の関係はその後も長く整わなかったが,1688年の名誉革命により,ブリテン王国はアングリカニズムを国教会とし,非国教徒には信仰の自由を認めて自由教会をつくることを許した。…
…〈もの〉によるコミュニケーションである。1660年,ピューリタン革命のあと王政復古したイギリスのチャールズ2世が,父チャールズ1世処刑の責任者として,すでに死んでいるクロムウェル,アイアトンらの墓をあばき,首を矛(ほこ)に刺して晒したことは,すでに死んでいる者の首に意味をこめておりその典型である。 日本の近世には,晒首は中国にならって梟首(きようしゆ)とよばれ,また梟首した首を獄舎の門に懸けたので獄門ともよばれた。…
…41年国王が譲歩して契約派は勝利を収めたが,その勝利を強化するため,イングランドの議会派と提携して内乱(ピューリタン革命)に介入した。しかし独立派の台頭のため逆にO.クロムウェルらのスコットランド支配を引き起こした(1651‐60)。短期間とはいえクロムウェルによるイングランドとの合併は,西部の商人層とアメリカ新大陸との接触をもたらし,伝統的な封建的支配層の力は弱まった。…
… しかしイングランドではチャールズ1世の即位後ピューリタンに対する弾圧は激化し,ついに40年長期議会召集を機にピューリタン派が多数を占めた議会と国王とが衝突,ピューリタン革命が起こった。43年からウェストミンスター教会会議が開かれ国教会を長老教会体制に改革する計画が進められたが,戦争の推移の中で独立派が優勢となり,49年チャールズ王を処刑しO.クロムウェルによる独立派主流の共和政が敷かれた。 革命がチャールズ1世の処刑によって最高潮を迎えたころ,ピューリタンの内部分裂はいちだんと激しくなり,数多くのセクトが活動を開始し,なかには千年王国説に立って〈神の王国〉の実現を訴えるものも出て,ピューリタンの神秘主義への傾斜がみられた。…
…その原因は,軍事的経験を積んだ貴族に率いられた国王軍と,地方の民兵隊,義勇軍を主力とした議会軍の質的な差にあった。このような議会軍の弱点を見ぬき,革命遂行のためには軍隊の改革が不可欠であると認識し,その改革を実現させて議会軍の勝利に寄与したことが,O.クロムウェルをしてこの革命の指導者たらしめた最大の理由である。内乱開始直後から熱心なピューリタンから成る騎兵隊を率いて議会軍に参加したクロムウェルは,1643年,劣勢の議会軍がスコットランドの軍事援助を求めたのを契機にして議会派内部で生まれた〈長老派〉と〈独立派〉の対立において,後者の中心人物と目されるようになった。…
…この時期の国教会の教義は〈十ヵ条〉(1536),《主教の書》(1537)にみられ,保守・改革両派の対立の結果,カトリック,プロテスタント両要素が混在している。他方,トマス・クロムウェルによって2回にわたって出された〈国王指令〉(1536,38)では,ルター的宗教改革とエラスムス的教会・社会改革が併用され,国教会のよりいっそうの改革をめざした。これに対し,すでに1521年教皇から〈信仰の擁護者〉という称号を得たほどの反ルター主義者ヘンリー8世は宗教改革の進展を好まず,ノーフォーク公,ガードナー主教と組んで39年〈六ヵ条法〉を通過させ,化体説・一種聖餐communion in one kindの確認,聖職者の結婚禁止など保守化を強め,翌年にはクロムウェルを処刑した。…
…王妃との間には男子が育たず,アン・ブーリンとの恋愛によってキャサリンとの結婚解消の認可を教皇に求めたが,教皇クレメンス7世はキャサリンが神聖ローマ帝国皇帝カール5世の伯母に当たることから承認を引き延ばし,最終的に拒絶した。ここに責任者である大法官ウルジー枢機卿は失脚し,大法官職はトマス・モアによって引き継がれたが,政務はトマス・クロムウェルによって行われ,イギリスにおけるローマ教皇権のすべてを取り除くことによって離婚問題の決着が図られることになった。すなわち1533年の〈上訴禁止法〉によって主権国家の宣言と外国からの司法権独立の表明を行い,翌年の〈国王至上法〉によってイギリスの教会をローマ教皇の支配から解放し,イギリス国教会を成立させた(宗教改革)。…
※「クロムウェル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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