江戸初期の茶人,遠州流の祖,また江戸幕府の奉行として建築,土木,造園を手がけた。名は政一,通称作介,号は孤篷庵。近江国小堀村(現,長浜市)に生まれる。はじめ豊臣秀吉に仕え,のち徳川家康に従い,父正次の死後は家を継いで近江小室1万石を領して遠江守に任ぜられた。早くより古田織部に茶の湯を学び,品川御殿作事奉行の任にあった1636年(寛永13),同御殿で3代将軍徳川家光に献茶し,ここからいわゆる将軍家茶道師範の称がおこった。大名茶全盛時代にふさわしく茶室,鎖の間(小座敷と書院の中間に位する座敷),書院の一体化をはかり,台子(だいす)の茶法を中心とする〈きれいさび〉の茶を主張した。茶道具においても名物の位付け(中興名物)を定めるとともに,遠州七窯といわれる国焼の振興,塗師近藤道志(石地塗(いじいじぬり))の指導など,茶の湯全般に工夫を行っている。
執筆者:筒井 紘一 遠州の建築・造園家としての活動は,1606年(慶長11)から翌年にかけての後陽成院御所に始まり,内裏(1613),伏見城本丸書院(1617),二条城(1624-26),後水尾院・東福門院御所(1626-30),江戸城(1629-30,41-42),水口御茶屋(1634),品川御殿,明正院御所(1642-43)などの奉行を勤めている。一般に作事奉行の仕事は,費用の取扱い,大工以下職人たちの手配,助役大名との折衝などが主であり,建物や庭園の設計に直接関与しないが,遠州だけは例外で,1619年(元和5)から翌年にかけての内裏女御御殿造営では,4人の奉行のうち遠州の担当した建物だけが,室内の内法長押(うちのりなげし)の上の小壁を張付仕上げとしている。他の3名の担当した建物はすべて白土塗りで,これが当時の普通の意匠であり,張付仕上げは意表をつくものであった。大工や絵師は4奉行とも共通であるから,意匠は彼らによるものではなく,遠州の発案と考えられる。桂離宮はじめ後世多くの〈遠州作〉の伝説が生まれたのは,彼の設計者としての実力にあやかろうとしたものであろう。
執筆者:西 和夫 遠州は作庭にも秀で,多くの事績があげられるが,遺構としては数少ない。公儀の作事である仙洞御所(南池東岸の切石積み直線の護岸と出島(もとは中島)の部分),二条城二の丸庭園(寛永度の改修),準公儀というべき南禅寺塔頭金地院(鶴亀の祝儀の庭),隠居所兼菩提所とした大徳寺塔頭孤篷庵(茶室忘筌の露地)は彼の確実な作品である。ほかに南禅寺,大徳寺の方丈庭園も参画の可能性が大きい。遠州の意匠は,それまでの庭園には見られない大胆な直線を導入したことが特筆される。
執筆者:村岡 正
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江戸初期の武家、茶人。遠州流茶道の開祖。天正(てんしょう)7年近江(おうみ)坂田郡小堀村(現滋賀県長浜市)に生まれる。名は作介、政一。号を宗甫という。遠州の名は1604年(慶長9)、父正次の没後、従(じゅ)五位下遠江守(とおとうみのかみ)に叙任されたことによる。16年(元和2)、28歳のとき、後陽成院(ごようぜいいん)御所の作事奉行(ぶぎょう)を命ぜられたのを手始めに、以後、江戸城、駿府(すんぷ)城、名古屋城(天守)、伏見(ふしみ)城(本丸)、禁裏(後水尾(ごみずのお)天皇)御所、女御(徳川和子)御殿、大坂城(天守・本丸)、金地院(こんちいん)(数寄屋(すきや)・庭園)、仙洞(せんとう)(後水尾院)御所、二条城(二の丸)、近江水口(みなくち)城、伊庭(いば)茶室、江戸東海寺(庭園)など、連年のごとく幕府・宮廷関係の各種建築・茶室・庭園の作事にかかわり、これは60代の初めまで続いている。24年(寛永1)伏見奉行に任じられ、正保(しょうほう)4年2月、没するまで在職した。父譲りの実務的な才能に加え、家康・秀忠(ひでただ)の信任を得ていた岳父藤堂高虎(とうどうたかとら)の後ろ盾もあり、公武にわたって活躍、その職掌を通じて豊かな古典の知識教養の持ち主となった。『伊勢(いせ)物語』に擬して二つの紀行文を著し、定家風の書をよくした。茶道具に、その由来や姿形にふさわしい古歌をもって銘をつけたのは遠州に始まるといってよい。
茶の湯については、10歳のとき大和郡山(やまとこおりやま)城で千利休(せんのりきゅう)の点前(てまえ)を実見して以来関心をもち、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)利休没後茶の湯名人となった古田織部(ふるたおりべ)に師事して伝授を受け、織部流を根幹に、利休流を適宜取捨して一流をつくりだした。その茶の湯観は「書き捨て文」や「壁書条々」にみられ、封建倫理が導入されているものの、王朝ぶりの感性に富んでいるのが特徴、その美意識が「きれいさび」と称されたゆえんである。大徳寺龍光院内に江月宗玩(こうげつそうがん)を請(しょう)じて孤篷庵(こほうあん)を営んだが、茶席忘筌(ぼうせん)には遠州の好んだ書院茶の湯の世界が示されている。伏見の屋敷で没。
[村井康彦]
『村井康彦著『茶の湯人物志』(角川選書)』
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(林左馬衛)
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1579~1647.2.6
江戸初期の大名茶人。父は小堀新介正次。近江国生れ。名は政一。号は宗甫・孤篷庵(こほうあん)。1593年(文禄2)豊臣秀吉に仕えて京都に移り,この頃古田織部(おりべ)に茶を学ぶ。のち江戸幕府の伏見奉行に任じられるが,これより先,作事奉行として,後陽成天皇の御所,駿府城修築の功により,従五位下遠江守に任じられる。1624年(寛永元)頃から茶人としての活躍が始まり,31年,3代将軍徳川家光の茶道指南として認められた。茶風は武家茶道に公家的な古典美を兼ね備えた「きれいさび」といわれ,近世茶道は遠州によって大成されたという。遠州作の茶室は大徳寺孤篷庵・竜光院密庵(みったん)席・金地院(こんちいん)八窓席など。
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…実父は,まだ確証を得ないが,秋成の出生時すでに死去していた小堀左門政報(まさつぐ)と考えられる。この説が正しければ,秋成は近世初期の数寄大名として著名な小堀遠州の隠れた子孫ということになる。出生問題ばかりでなく,生い立ちも数奇をきわめていて,4歳のとき生母に捨てられ,大坂堂島永来町の富裕な紙油商,上田茂助の養子となった。…
…小堀遠州が所持した道具を列挙した什物(じゆうもつ)帳の通称。《遠州遺物帳》《遠州御蔵元帳》などの名でも流布している。…
…江戸初期の大名茶人小堀遠州が指導し,またその好みの茶具を焼いたとされる七つの窯。遠州七窯が説かれるようになるのは江戸時代後期かららしく,1854年(安政1)刊の《陶器考》では,瀬戸を除いた国焼に限り,志戸呂,上野(あがの),朝日,膳所(ぜぜ),高取,古曾部,赤膚の諸窯をあげている。…
…小堀遠州を流祖とする茶道の流派の一つ。古田織部のあとをうけて将軍家光の茶道師範となった遠州が,大名茶全盛の時代に台子を中心とした〈きれいさび〉の茶法を開いた。…
…近世大名。戦国期,近江坂田郡小堀村(現,長浜市)より興る。浅井氏滅亡後,正次は羽柴(豊臣)秀長に属し,その死後秀吉に仕え大和,和泉に5000石を領した。関ヶ原の戦では東軍に属し備中に1万石を加増される。その子政一(遠州)は1604年(慶長9)遺領を継ぎ,のち近江に移封となり,備中・近江などの国奉行や伏見奉行を歴任した。また茶道遠州流の祖として知られ,作事奉行として造庭にも手腕を発揮した。その後,代々近江小室を領したが,1788年(天明8)政方の代に伏見奉行としての失政を問われ改易された。…
…《清巌禅師茶事十六ヶ条》に〈大名有力の茶〉という語があり,町人の茶に対する大名の茶というタイプが意識されている。大名茶といえば歴代徳川将軍の茶道指南とされる古田織部,小堀遠州,片桐石州ら大名茶人の茶風を指すが,織部にはかぶき者的な性格があって大名茶と性格を異にする。遠州,石州の茶は封建社会を支える分限思想や儒教道徳的な徳目をその茶道思想に含み,好みも均衡のとれた洗練度の高い美しさを見せ,また名物道具を中心とする書院台子の茶の伝統をその点前に包含するなど,大名の趣味としての要件を備えているといえよう。…
… 利休の没後には,求道性からの逃避を求める反利休的な作意が表面化して,茶室にも新しい傾向を進展させた。それは主として,利休の弟子であった織田有楽斎,古田織部,小堀遠州など武家の茶匠たちの作風に強くあらわれ,〈わび〉への傾向の緩和を図った。茶室に対して示されたおもな要求は,座にゆとりをもたせること,意匠に視覚的な効果をくふうすることなどであった。…
…17世紀の茶道は,古田織部によって利休の茶が引き継がれるが,織部もまた利休風の激しい茶を好み,織部焼(織部陶)に象徴されるような強烈なデフォルメと不均衡の美を主張した。17世紀初頭の時代風俗である〈かぶき〉の反映ともいえる織部の好みは,織部に利休同様の切腹という悲劇をもたらし,茶道はその弟子小堀遠州の時代となる。遠州が活躍した17世紀前期は寛永文化の時代で,茶人としては利休の孫にあたる千宗旦,仁清の焼物を指導した金森宗和,遠州の跡を襲って将軍茶道指南となった片桐石州などが活躍した。…
…茶道具の位付を表す名物の一種。中興名物は小堀遠州の美意識によって選ばれた名品といえるが,その呼称は松平不昧(松平治郷(はるさと))の《古今名物類聚》に初見される。茶入でいえば,唐物・古瀬戸より後の,瀬戸窯や国焼(くにやき)の中から選ばれ,また大名物(おおめいぶつ)からもれた品も美の基準の問題として入ってくる。…
…あくまでも歩くための庭であって,見る要素は少なかった。町衆の人々にはぐくまれた茶の湯が,利休の弟子の古田織部や小堀遠州のような武将の手に移るころには,かなり内容が変化している。露地は,広い大名屋敷内につくられた関係もあって広くなった。…
…京都南禅寺塔頭(たつちゆう)金地(こんち)院にある茶室。金地院崇伝(こんちいんすうでん)の依頼をうけた小堀遠州の指図で,1628年(寛永5)ころには完成していたことが《本光国師日記》の記事から推測される。内部は3畳台目。…
…江戸幕府の職名。遠国奉行の一つ。桃山時代から江戸時代初期に中央政治都市として重要な役割を果たした伏見は,廃城後城下町から商業都市へと変わったが,京都を避ける大名行列が通る京街道の重要な宿場でもあったため,幕政上きわめて重視され,大名または大名格のものが奉行として任命された。伏見の民政については,1623年(元和9)に小堀政一(遠州)が登場するまでは不明な点が多い。小堀は伏見に役所を置いたが,伏見だけでなく畿内近国8ヵ国の幕政を担当した。…
※「小堀遠州」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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