小林 樟雄
コバヤシ クスオ
- 肩書
- 衆院議員(自由党)
- 別名
- 号=樟南
- 生年月日
- 安政3年9月16日(1856年)
- 出生地
- 備前国船頭町(岡山県岡山市)
- 経歴
- 岡山藩士の子。藩校兵学館、英仏普通学館に学んで上洛、フランス法の研究中、自由民権思想に共鳴。明治11年岡山に帰り、県民を代表して国会開設建白書を太政官に提出。13年国会期成同盟に入り、14年自由党結成に加盟。17年清仏戦争が起こると後藤象二郎らと謀り、朝鮮から清国追い出しを画策したが失敗。18年大阪事件に連座、大井憲太郎らと捕まり、軽禁獄6年判決、上告中余罪がわかり重懲役9年に処せられた。22年憲法発布大赦で出獄。23年国会開設とともに衆院議員となり当選3回。自由党、立憲革新党などに属した。
- 没年月日
- 大正9年4月9日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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小林樟雄
没年:大正9.4.9(1920)
生年:安政3.9.16(1856.10.14)
明治期の自由民権運動家,政治家。備前国(岡山県)船頭町に生まれる。上京してフランス法律学を学び,自由民権思想に共鳴,明治11(1878)年9月愛国社再興大会に岡山県代表として出席,のち国会期成同盟,自由党に加わり,指導的役割を果たしたが,大井憲太郎らの大阪事件(1885)に連座,重懲役9年に処せられた。22年明治憲法発布の大赦令で出獄。23年第1回総選挙で岡山県から衆院議員に当選。以後連続3回当選。晩年は政治活動を断念して余生を送り,不遇であった。<参考文献>牧野逸馬『小林樟雄君之伝』,松尾貞子「小林樟雄小論」(大阪事件研究会編『大阪事件の研究』)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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小林樟雄 こばやし-くすお
1856-1920 明治-大正時代の政治家。
安政3年9月16日生まれ。フランス法をまなび自由民権思想に共鳴。国会開設運動にくわわり,自由党の結成に参画。明治18年大阪事件で大井憲太郎らとともに捕らえられたが,22年恩赦で出獄。23年衆議院議員(当選3回)。大正9年4月9日死去。65歳。備前(岡山県)出身。号は樟南。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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小林 樟雄 (こばやし くすお)
生年月日:1856年9月16日
明治時代の自由民権家。衆議院議員
1920年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の小林樟雄の言及
【大阪事件】より
…大阪で同志が逮捕されたのでこう呼ばれる。壬午軍乱(1882),甲申政変(1884)で朝鮮における親日派の後退を見た自由党左派の首領[大井憲太郎]は,1885年11月小林樟雄,磯山清兵衛,新井章吾,稲垣示らと謀り,壮士を率いて渡韓,事大党(閔妃政権)を倒して独立党政権を樹立する計画を進めたが,磯山の変心で発覚し一同逮捕された。計画そのものはずさんで関係者の意図もまちまちであったが,おおよそのところは朝鮮独立を達成することで国民の眼を外に転じ,刺激を与えることで内政改良へと向かわせようという点にあった。…
※「小林樟雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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