デジタル大辞泉 「太政官」の意味・読み・例文・類語
だじょう‐かん〔ダジヤウクワン〕【▽太政官】
2 ⇒だいじょうかん(太政官)1
律令制の最高官庁。〈だじょうかん〉〈おおいまつりごとのつかさ〉とも読む。また,唐の尚書省(しようしよしよう)の都省(としよう)を模した官庁であったので,尚書省,都省,鸞台(らんだい)などともいう。唐の尚書省は最高の行政官庁で,その都省は吏部,礼部,戸部,兵部,刑部,工部の六部(りくぶ)をはじめとする中央・地方の行政官庁を統轄していた。日本の太政官については,《日本書紀》天智10年(671)の条に太政大臣,左大臣,右大臣,御史大夫の任官のことがみえるので,それ以前に制定された近江令で定められた官庁であるとする説と,壬申の乱(672)以後の天武朝で形成されたとする説があるが,組織が整ったのは大宝令(701制定・施行)においてである。八省,弾正台,衛府,諸国などの中央・地方のすべての官庁を統轄する。神祇官は,官庁の名称は同じ〈官〉であるが,これも統轄下に置かれていた。その組織は,議政官組織,少納言局,左右の弁官局の三つからなる。
(1)議政官組織を構成する官職は太政大臣(定員1,ただし本来は具体的な職掌をもたない天子輔導の官),左大臣・右大臣(各定員1),大納言(定員4,のち2となる)だが,8世紀はじめに令外官(りようげのかん)の中納言(定員3)と参議(はじめ定員なし,9世紀から8となる)が加わり,平安時代にさらに内大臣が加わった。これらが後世公卿(くぎよう)といわれるものであって,その定員は10世紀ころまでほぼ守られていた。この組織は,天皇の諮問にこたえ,国政や法を審議し,また,天皇の命令(勅)や審議決定事項を後述の弁官局に伝えて,行政執行命令書としての太政官符(諸官庁に下す命令書),太政官牒(寺院などに下す命令書),弁官下文(官宣旨(かんせんじ)ともいい,太政官符,太政官牒の様式と発布手続を簡略にしたもの)を作成させ,執行させる。これは,律令制以前に存在した畿内出身の有力豪族の長による国政合議の体制を継承したものであって,8世紀前半には旧豪族の拠点として天皇の権力を掣肘(せいちゆう)する機能を保持していたが,8世紀半ば以降そうした機能は失われ,しだいに天皇に従属するものとなった。だが,その国政審議の府としての権能はながく継承され,平安時代に陣定(じんのさだめ)と称された公卿の会議では各種の政務が審議されたし,また少納言局や弁官局が行う外記政・官政などの政務には,中納言以上の公卿が上卿(しようけい)として出席し,指揮するのが例となっており,こうしたことは摂関政治や院政の時代でも変わることはなかった。しかし鎌倉時代を経て武家政治の時代となり,公家(くげ)の権力そのものがおとろえると,そうした政務も実を失い,形式化し儀式化した。
(2)少納言局は,このような議政官組織の秘書局的な機関で,少納言(定員3)と大外記・少外記(定員各2)で構成されるが,少納言は侍従を兼任するものであったから,あわせて天皇と議政官組織との間の連絡役をも任務とした。9世紀に蔵人所(くろうどどころ)が置かれると,後者の任務は蔵人に移り,議政官組織の秘書局としての職務はもっぱら外記が行うようになった。
(3)左右の弁官局(弁官)は,行政事務執行機関,行政命令書発給機関であって,左・右とも,大弁・中弁・少弁(定員各1)と大史・少史(定員各2)で構成され,上に述べたように,議政官組織の命令をうけて太政官符などを作成・発布して諸官庁に施行を命じ,また諸官庁の申請を受理してこれを議政官組織に伝えるのを任務とした。
なお太政官という名称は,758年(天平宝字2)に藤原仲麻呂の建策によって乾政官(けんせいかん)と改められたが,仲麻呂の没落とともに旧に復した。またその名称も組織も,形骸化しながらも明治維新まで存続し,維新後の太政官(だじようかん)にひきつがれた。
→太政官(だじょうかん) →二官八省
執筆者:早川 庄八
明治初年に制定され,内閣制度の設置まで存続した令制の最高行政官庁(明治以前については〈太政官(だいじようかん)〉の項を参照されたい)。その官職名は古代律令制にならってはいたが,実態としては,一応,欧米の〈三権分立〉制度をとっていた。発足当初の明治政府の官庁機構を規定する契機になったのは,1868年(明治1)に公布された政体書である。そのなかでは,〈天下の権力,総てこれを太政官に帰す。則ち政令二途に出るの患無からしむ。太政官の権力を分って,立法・行政・司法の三権とす〉と定められていた。すなわち,立法部を議政官(上・下局),行政部を行政・神祇・会計・軍務・外国の5官,司法部を刑法官の計7官でつかさどっていた。しかし,その中心は立法と行政であったのみならず,立法権が行政権に従属していたため,〈三権分立〉主義とはいっても名目だけで,近代的な西欧の政治原理の採用とは異質のものであった。その後,太政官制は版籍奉還,廃藩置県をとおして国家権力の集権化が進むにつれて,整備されていった。まず,版籍奉還(1869)直後には7官制を廃止して,神祇・太政の2官のもとに民部,大蔵,兵部,刑部,宮内,外務の6省が設置された。大蔵省や外務省のように現在の中央官庁の呼称が初めて登場したのも,この時期からである。この2官6省制にみられる特徴は,祭政一致の原則に基づいて,神祇官が太政官の上位に位置づけられ,また天皇を補佐する太政官のもとに左右両大臣,大納言,参議などが置かれたことである。ついで廃藩置県(1871)後の官制改革により同制度は3院8省制に改められた。すなわち天皇臨席のもとで政務をとる正院,立法府に相当する左院,各省の高官が事務を審議する右院の下に,大蔵・兵部・宮内・外務の4省と70年に新設の工部省,それに神祇・文部・司法の3省を加えて,合計8省が設置された。その後,征韓論による政府内部の抗争の影響で太政官制の部分的改革があり,参議が各省の長官を兼任するようになり,75年には左右両院に代わって元老院と大審院が開設され,正院はその2年後に廃止された。さらに80年には太政官に法制,会計,軍事,内務,司法,外務の6部が設置され,ついで明治14年の政変(1881)による国会開設の詔勅発布直後に6部制は廃止されて参事院がおかれ,立憲制の採用準備が進んだ。
その後,帝国憲法制定の機運がもりあがるなかで古代律令制にならった太政官制を変更する必要から,内閣制度の施行を画期に1885年,同制度は廃止された。廃止に至る全過程をみると,制度の改廃・統合が繰り返され,試行錯誤のなかで,太政官制の機構とその役職が天皇を中心とする旧西南雄藩出身者の派閥対立と自派の勢力拡張に利用される反面,統治機構内部の矛盾が露呈されるなかで,立憲制の制定へ向けやがて同制度は解消される運命にあったといえる。
執筆者:石塚 裕道
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律令(りつりょう)官制における中央・地方行政の最高機関。和訓ではオオイマツリゴトノツカサといい、日本独自の官制。しかしそのモデルは唐の最高の行政官庁である尚書省の都省であったため、尚書省・都省・鸞台(らんだい)ともいう。藤原仲麻呂(なかまろ)が官名を唐風に改めたときには乾政(けんせい)官と称した。官制上は神祇(じんぎ)をつかさどる神祇官に対し、行政全般をつかさどるのを任務としたが、実際には神祇官をも統轄下に置いていた。その範疇(はんちゅう)は、狭義には大臣から大納言(だいなごん)(のち令外官(りょうげのかん)である中納言・参議を含む)の議政官をさす例から、広義には八省を含む行政官全体を示す場合まで多様である。しかしその基本は、議政官組織とその秘書、事務局である少納言局、および行政実務の執行機関ともいうべき左右弁官局の3部局から成立しているとみるべきである。その成立時期はさだかではないが、浄御原(きよみはら)令制下にも存在したが大宝(たいほう)令制のそれとは異質であり、官制としては大宝律令で確立した。
議政官は天皇の諮問に答え、勅や審議決定事項を弁官を通して、太政官符などを通じて執行させた。議政官は令前の大夫(まえつぎみ)制の伝統を引き継いだ有力氏族の代表者たちであり、その合議によって政務は進められたが、基本的には天皇権力を前提にその政治を補完する性格のものであった。9世紀初めに蔵人所(くろうどどころ)が成立してのち、徐々に形式化するが、平安時代でも、陣定(じんのさだめ)(仗議(じょうぎ)ともいい公卿(くぎょう)会議)で各種の政務が審議され、少納言局の政務を引き継いだ外記政(げきせい)や弁官局の政務を引き継いだ官政(かんせい)などでは中納言以上が上卿(しょうけい)として出席するなど、形式は変わるが太政官の機能は生き続けた。武家政権下では公家(くげ)の政務が形式化するに伴い、太政官も形骸(けいがい)化したが幕末まで続き、明治政府の太政官(だじょうかん)制に及んだ。
[佐藤宗諄]
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「だじょうかん」とも。律令官制における最高官庁。天皇のもとで,神祇官や八省などの諸司や国司などすべての官庁を統轄。内部構成は,(1)左右大臣・大納言などからなる天皇の諮問,国政の審議部門,(2)少納言・外記(げき)などからなる(1)の秘書部門,(3)左右の弁・史などからなり,諸司・諸国の事務を受理して(1)に伝達し,また天皇や(1)の決定を施行する事務処理・執行部門,の三つに大別される。(1)には8世紀初頭に令外(りょうげ)の制として中納言2人,参議若干名(のち8人に定数化)が追加され,平安時代には内大臣も加わって,全体で公卿と総称された。(2)は少納言局とよぶが,平安時代に少納言の職が蔵人(くろうど)に奪われるとともに外記の機能が拡大すると外記局の称もうまれ,筆頭の外記は局務ともよばれた。(3)はいわゆる弁官局で,太政官符や下文(くだしぶみ)・宣旨などの作成にもあたるが,平安時代以降はとくに史の事務的機能が重視され,筆頭の史は官務と称した。
2明治前期の政府の最高行政機構。1868年(明治元)閏4月,政体書の発布により設置。すべての権力を太政官に集め,それを立法・行法(行政)・司法の三権にわけ,議政官・行政官・刑法官をおいた。何回か官制改革が行われ,二官六省の制(1869年),三院八省の制(1871年)などがとられたが,73年5月,太政官職制の改正で機構が整備された。太政官では太政大臣・左大臣・右大臣のいわゆる三大臣と参議の協議により重要政策を決定したが,とくに参議には藩閥政治家の実力者が就任し内閣の議官として大きな発言力をもった。その下に外務・大蔵・陸軍・海軍・文部・工部・司法・宮内・内務の各省(のち農商務省も)がおかれ行政事務を分掌した。85年12月,近代的な内閣制度の制定により廃止。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…唐の尚書省は最高の行政官庁で,その都省は吏部,礼部,戸部,兵部,刑部,工部の六部(りくぶ)をはじめとする中央・地方の行政官庁を統轄していた。日本の太政官については,《日本書紀》天智10年(671)の条に太政大臣,左大臣,右大臣,御史大夫の任官のことがみえるので,それ以前に制定された近江令で定められた官庁であるとする説と,壬申の乱(672)以後の天武朝で形成されたとする説があるが,組織が整ったのは大宝令(701制定・施行)においてである。八省,弾正台,衛府,諸国などの中央・地方のすべての官庁を統轄する。…
…その職掌また令制官職・位階との相当関係も定かではなく,左右大臣等との関連も明らかではない。しかし天武天皇の皇子皇孫が任ぜられていることは特徴的であり,おそらく令制の太政官制とは性格を異にする官ではなかったかと思われ,実際には大臣の上位に位置づけられる性格ではなかったかと考えられる。すなわちその施行時期なども考慮すると,大宝令による律令太政官制の確立にともない,太政官(だいじようかん)の議政官が上級貴族によって占められるため,天皇の側から太政官を総知する機能を有する独自の官として設置されたものと思われる。…
…しかし5世紀以来ヤマト政権の主要勢力を構成する豪族連合の力は依然強大で,天智天皇がその末年(671)に,有力豪族の代表5人を左右大臣や御史大夫に任じ,政府首脳部を構成したのはそのあらわれである。この体制は壬申の乱後,天武天皇によって打破され,皇親政治と呼ばれる天皇中心の独裁的な政治が行われたが,天武の没後には永続せず,大宝律令制下では新しく制定された太政官(だいじようかん)制として復活した。太政官の首脳部は,定置の官でない太政大臣のほか,左右大臣と大納言,令外官の中納言と参議によって形成され,政策の決定に大きな発言権をもち,その会議の結論は天皇も容易に拒否することはできなかった。…
…日本古代の律令制の官庁組織をいう語。狭義には太政官(だいじようかん),神祇官(じんぎかん)の二官と中務(なかつかさ)省,式部(しきぶ)省,治部(じぶ)省,民部(みんぶ)省,兵部(ひようぶ)省,刑部(ぎようぶ)省,大蔵(おおくら)省,宮内(くない)省の八省を指すが,広義には,この二官・八省に統轄される八省被管の職・寮・司や弾正台(だんじようだい),衛府(えふ)などの中央官庁および大宰府(だざいふ)や諸国などの地方官庁を含む律令制の全官庁組織の総体をいい,ふつうは後者の意味で用いる。このような官庁組織は,7世紀後半から8世紀初めにかけて形成された。…
…まず中央には天皇の居所,官庁の所在地,官人の居住地として,整然とした条坊区画をもつ都城が営まれた。そこに具現された律令中央官制にはまず祭祀をつかさどる神祇官,国政一般をつかさどる太政官(だいじようかん)の二官があったが,前者もまた後者の統轄下にあり,太政官が国家統治の最高機関としての地位を有していた。太政官内には,左右大臣・大納言からなる議政官組織(太政大臣は非分掌の職であり即闕の官)のもとに左右弁官局・少納言局の三部局が存在し,左弁官は中務(なかつかさ)・式部・治部・民部,右弁官は兵部・刑部・大蔵・宮内の各省をそれぞれ統轄した。…
※「太政官」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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