小野原村(読み)おのはらむら

日本歴史地名大系 「小野原村」の解説

小野原村
おのはらむら

[現在地名]箕面市小野原、茨木いばらき西豊川にしとよかわ

粟生あお村の南東にある。村の南部は千里丘陵の北端部にあたり、北部には粟生村との間に小丘陵がある。東西に長く、ほぼ中央を西国街道(山崎通)が通る。集落は街道沿いにある。島下しましも郡に属する。建武二年(一三三五)二月二六日の頼全畠地寄進状(勝尾寺文書)に「小野原村」とみえ、村にある頼全の私領一反が勝尾かつお寺に寄進されている。貞和五年(一三四九)一一月日の鳥居造立条々注文(同文書)によると「郷本小野原」の両所の勝尾寺領散在田畑分として鳥居造立用米三斗九升が徴収されている。室町時代と推定される勝尾寺田畠佐保・小野原知行分目録(同文書)によると、当村の見定野・堂後・仁取・松イチ・赤坂・北ウラなどに勝尾寺領があった。応永八年(一四〇一)七月日の勝尾寺衆徒等申状案(同文書)によると当村住民が勝尾寺領山林に乱入し、山林の乱伐、勝尾寺衆徒に乱妨を働くなどしている。

慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図では小野原村・新在家しんざいけの二村で高三〇五石余。元和初年の摂津一国高御改帳では小野原村のみで高三〇五石余、旗本佐々木次郎左衛門知行。この両石高からみて新在家は当村の小村であったと思われる。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では佐々木大膳亮領、天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳ではすべて幕府領。

小野原村
おのばらむら

[現在地名]荒川村小野原

贄川にえがわ村の東、荒川上流の左岸に位置し、南は荒川を境に日野ひの村・白久しろく村。荒川沿岸を除いては山地が大部分を占める村方で、北部の字柴原しばはら赤平あかびら川支流長留ながる川の最上流域にあたる。「秩父志」によると往古荒川沿岸の荒原で牧馬を生育した所という。年代は不明だが贄川村よりの分村といわれる。近世初めは幕府領、天和元年(一六八一)忍藩領となり、貞享三年(一六八六)幕府領に復する。

小野原村
おのばるむら

[現在地名]武雄市橘町大日たちばなまちだいにち字小野原

武雄盆地の南、大日村の北に位置し、一部は杵島きしま山に接する。

享徳四年(一四五五)三月一五日の渋江公代書状に「長島庄内小野原十五町」とある。

昭和四四年(一九六九)水田から弥生式土器片が一括出土し、これらに混じって土師器・須恵器をはじめ中世の青磁や白磁片も出土した。村内のおつぼ山には神籠石こうごいしがあり、また甕棺群集墓と古墳時代の箱式石棺の群集墓があって、さらに平安末期の経筒も発掘されている。水田面から約一メートルの微高地で弥生時代の住居跡が発見されている。また条里制の遺構が多い。

平安時代の後期には蓮華王れんげおう院領の長島ながしま庄に属し、鎌倉時代には惣地頭の橘薩摩氏の所領となった。橘薩摩氏三代の公村は三人の弟にそれぞれ領地を分けて与え、自らは渋江と改姓し、第一弟には牛島姓、第二弟には中村姓、第三弟には中橋姓を名乗らせ、牛島に一二〇町歩、中村に一〇〇町歩を譲与した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android