日本歴史地名大系 「箕面市」の解説 箕面市みのおし 面積:四八・三五平方キロ北摂山地の南側、余野(よの)川・箕面川・勝尾寺(かつおじ)川の流域一帯を市域とする。役行者が開いたと伝える霊場、箕面山と箕面滝が地名の起源で、「扶桑略記」応和二年(九六二)四月条に、「千観内供於摂州蓑尾山観音院、作法華三宗相対抄」とあるのが初見。近代に箕面村・箕面町があり、市制施行に際しても同名を踏襲した。〔原始・古代〕瀬川(せがわ)の南の丘陵に瀬川遺跡があり、縄文時代前期北白川下層式、同後期元住吉山式・宮滝式の土器片や、石匙・石鎗のほか多数の石鏃が出土。また如意谷(によいだに)からは、水平に埋められた大型の銅鐸が発見されている。市域に残る古墳としては、六世紀に築造された桜(さくら)古墳や中尾塚(なかおづか)古墳があるが、中尾塚古墳からは八世紀の糸尻高台付坏と銅銭を伴出し、その頃の追葬を示している。大和政権の頃この地方は猪名(いな)県の一部で、市内白島(はくしま)の式内社為那都比古(いなつひこ)神社と関係する為奈部首や、半町(はんぢよう)の式内社阿比太(あひた)神社と同名の阿比太連ら豪族の勢力圏であったと思われる。現市域の大部分は豊島(てしま)郡に属し、東部の一部は島下(しましも)郡に入るが、「和名抄」の郷名では、止々呂美(とどろみ)が豊島郡秦上(はたのかみ)郷、牧落(まきおち)・瀬川辺りが秦下(はたのしも)郷、旧萱野(かやの)村(明治二二年成立)一帯が駅家(うまや)郷、粟生(あお)が島下郡宿久(すく)郷に、ほぼ比定される。北摂山地と千里丘陵に挟まれた山麓の平地には官道(山陽道、のちの西国街道)が通り、摂津の三駅の一つ草野(すすき)駅は、萱野地区辺りにあったと考えられている。また右馬寮の官牧である豊島牧がこの地域に置かれ、馬寮の馬の放飼・繋飼が行われた。奈良時代末から平安時代初期には仏教徒の山岳修行が盛んになり、市域山間に修行者が入山して箕面山・勝尾山などに山岳道場が開かれ、元慶四年(八八〇)の清和天皇の勝尾山巡幸や応和年中の千観内供の箕面滝における祈雨祈祷などが広く世に知られ、箕面寺(瀧安寺)・勝尾寺は平安時代屈指の「聖の住所」に発展した。〔中世〕平安中期に成立した摂関家領垂水(たるみ)牧は、中世の初めには千里丘陵一帯を占める大規模な庄園になったが、粟生村は垂水東牧に、萱野郷は西牧に属して、近衛家・奈良春日社の支配を受けた。また比叡山浄土(じようど)寺門跡は外院(げいん)庄・美河原(みがわら)庄(止々呂美)、高山(たかやま)庄(現豊能郡豊能町)の三ヵ庄を領有し、市域南西部には右馬寮領豊島牧が存在していた。これら庄園村落の住民は、農業のほか林業にも従事し、寺領山林の伐採・炭焼の問題で勝尾寺や箕面寺と対立した。このため寛喜二年(一二三〇)に太政官牒などによって勝尾寺領山林の境界が定められたが、このとき築造された八天石蔵(はつてんのいしくら)が同寺周辺の山内に現存し、国の史跡に指定されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「箕面市」の意味・わかりやすい解説 箕面〔市〕みのお 大阪府北西部,北摂山地南麓の市。 1956年箕面町が豊川村を編入して市制。箕面川の渓谷は古くから箕面滝と紅葉の名所として知られる観光地であったが,10年箕面有馬電気軌道 (現阪急電鉄箕面線) の開通により,宅地開発が急速に進展。第2次世界大戦後は公団住宅なども多く建設され,大阪市の観光,住宅衛星都市となった。 70年,南部に大阪船場繊維卸商団地が建設された。山地ではクリ,ビワなどを栽培。箕面山は名勝,勝尾寺旧境内ぼう示八天石蔵および町石は史跡,箕面山のサル生息地は天然記念物に指定。この一帯は明治の森箕面国定公園に指定され,府立箕面公園がある。北部余野川縁を国道 423号線が,南部を 171号線が横断する。面積 47.90km2。人口 13万6868(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by