荒川村(読み)あらかわむら

日本歴史地名大系 「荒川村」の解説

荒川村
あらかわむら

[現在地名]協和町荒川

上淀川かみよどかわから角館かくだて(現角館かくのだて町)に通ずるつなぎ街道沿いにある集落で、中央を荒川が流れる。西南は上淀川村に接し、そのほかは「当所之儀は嶽下山沢入之在所」(六郡木山方以来覚)といわれるように山地が多く、川沿いのごく狭い範囲に耕地がある。

奥羽永慶軍記」によれば戸沢九郎盛安が、領地の境の要害である荒川に進藤筑後守乗以を配置した記述がある。新庄古老覚書の天正一八年(一五九〇)戸沢平九郎光盛が豊臣秀吉の命によって三五の城を破却した際に、白岩しらいわ檜木内ひのきない・淀川などとともにみえる荒川はこの地と推定される。中世には軍事上の拠点であった。

久保田領郡邑記には、「稲沢荒川ノ境ニ古城アリ、諸方ノ野武士等一揆ニ村々ヲランボウスル事度々アリ、其時ノタメニ村中ニ城ヲ築キ置テ一揆ノ寄セ来ル時、此城ニ老タルモノ、妻子等ヲ籠メ置、壮者ハ一揆ト戦ハントスルノ勢ヲナス、此故ニ此備有村ハ犯シカタシトス、古城ニ住居ノモノ知レスト云フハ多クハ此類ナラント村老ノ云ヘリ、此言大ニ是ナリ」とあり、城の性格をよく表している。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]花園町荒川

小前田おまえだ村の東に位置し、南は荒川を隔て男衾おぶすま赤浜あかはま(現寄居町)。村の中央を東西に秩父往還が横断。川越から上野高崎へ出る中山道の脇往還が赤浜村から渡船によって当村へ入り、荒川沿い字川端かわばたの西端で北西へ曲折し、小前田村へ向かう。中世には鎌倉街道上道と榛沢瀬はんざわせ道があった。榛沢瀬道は建久四年(一一九三)源頼朝が浅間山麓の「信濃国三原」などで巻狩を行ったとき(「吾妻鏡」同年三月二一日条)、榛沢瀬左衛門にこの道を築かせたという伝承がある。この道は川越かわごし岩を経て荒川を渡り、黒田くろだ村・永田ながた村との境界を北上する。戦国末期には鉢形はちがた(現寄居町)城主北条氏邦の支配下にあり、天正四年(一五七六)一〇月二一日の北条氏邦印判状(持田家文書、以下断りのない限り同文書)は「荒河之郷」の持田四郎左衛門に対して軍役の出役要領を定めたものである。四郎左衛門は同郷を根拠地とする荒川衆の頭領で、同五年当時の荒川衆の構成は鎗馬の持田四郎左衛門と鎗五名、ほかに「たゝさハ」に居住していた鎗馬の持田主計助と鎗四名の計一一名であった(同年八月二〇日北条氏邦印判状)。なお「たゝさハ」は、「風土記稿」に当村の小名只沢たださわとみえる。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]羽黒町荒川

野荒町のあらまち村の西、ささ川左岸にあり、同川支流荒川(今野川)との合流点南側にあたる。村の中央を東西に羽黒街道が走り、同街道沿いに西荒川・東荒川・山荒川やまあらかわの三集落が点在、南方荒川上流の飛地に端郷の今野こんの村がある。東端の丘陵上には荒川館跡があって、たての八幡を祀り(筆濃余理)馬場跡ばばあとという地名も残る。また曹洞宗荒川こうせん寺は古くは同館郭内にあったと伝え、大正九年(一九二〇)館跡を開墾したときには縄文土器・石鏃のほか五輪塔・石仏なども出土した。最上氏時代、当村の民家に五人の者が立籠り、大浦おおら(現鶴岡市)城代下次右衛門から二、三〇人の追手をかけられて討取られるという事件があった(元和八年「北五右衛門高名覚書」大泉紀年)

元和八年(一六二二)庄内藩領となり、同年の酒井氏知行目録では高九三九石余。寛永元年庄内高辻帳では高一千四三九石余、正保郷帳では田高一千三四九石余・畑高七一石余。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]甲府市荒川一―二丁目・池田いけだ一―二丁目・下飯田しもいいだ一丁目

長松寺ちようしようじ村の北にあり、北は南東流する荒川を挟んで山梨郡千塚ちづか村。慶長古高帳に村名がみえ、高四三〇石余。ほかに大明神(現諏訪神社)領二石余。貞享元年(一六八四)の検地帳(県立図書館蔵)では高四四五石余、反別は田二一町九反余でうち麦田二町七反余、畑六町四反余、屋敷九反余。享保九年(一七二四)以降の支配代官は、判明分については上石田かみいしだ村と同じと推定される。文化三年(一八〇六)明細帳下書(県立図書館蔵)によれば家数四一・人数一八一、馬五。畑作は木綿・煙草・かり豆など、農間には木綿稼のほか肥・薪取をした。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]玉之浦町荒川郷あらかわごう丹奈郷たんなごう

中須なかす村の北、玉之浦の北東側に位置する。北にちちヶ岳、北東にななッ岳があり、荒川が流れる。七ッ岳の南を越え、二本楠にほんぐす(現岐宿町)を経て福江ふくえに至る古道がある。北西にある丹奈村を当村のうちとする場合があり、さらに海岸を北に行くと観音かんのん崎と頓泊とんとまりの入江がある。江戸時代は福江藩領玉之浦掛に属する。万治二年(一六五九)惣高積之帳に玉之浦領として「荒川」とみえ、今高六五石余。万治年間とされる五島一円惣高帳では高六五石余、うち蔵入地四六石余・寺社領一九石余。寛文四年(一六六四)の福江領高辻帳では荒川村として塩竈高二〇石。新田畑改高は元禄一〇年(一六九七)の高一七石余、享保六年(一七二一)の高三石余のほか、安永元年(一七七二)に荒川村荒川分二石余・荒川村丹奈分一石余があり、享和三年(一八〇三)に高一〇石余、文化三年(一八〇六)には高七石余であったが、天保四年(一八三三)当時の荒川・丹奈の荒地高二六石余(天保五年福江領高辻郷村帳)

荒川村
あらかわむら

[現在地名]日高町荒川

猪子垣いのこがき村の南、三方みかた盆地の中央部に位置する。天保郷帳の村名注記に古くは「安良川村」とある。慶長六年(一六〇一)旗本杉原四郎兵衛長氏は当村などで一千石を与えられ、同家に伝えられて明和元年(一七六四)に至る。同年同家断絶により上知(「寛政重修諸家譜」・寛永一六年知高帳など)。同家は当村に陣屋を置いたため荒川杉原氏と通称される。明和元年以後は幕府領。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高一一五石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも同高。杉原氏の当初の知行高一千石は当村のほか奥八代おくやしろ村二〇八石余・つめ(猪爪)村一三九石・たに村一三〇石余・奈佐路なさじ村一〇六石余・河江かわえ村九五石余・篠垣しのがき(東組)一一三石余であったが(前掲知高帳)、長氏の遺跡を継いだ正永が寛永一〇年下野国で二〇〇石を加増された。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]東大阪市荒川一―三丁目・荒川・永和えいわ一―三丁目

渋川郡に属し、若江郡高井田たかいだ村の南にある。東は枝郷横沼よこぬま村、北西は同長堂ちようどう村、西は東足代ひがしあじろ村と当村枝郷さん村。北西から南東に抜ける十三じゆうさん街道沿いに集落があり、小字名に三十一さんじゆういち三十一井路南さんじゆういちいじみなみなかつぼなど条里制に関係する地名が残る。

天正一二年(一五八四)一一月の河内国御給人御蔵入之内より出米目録(中之島図書館蔵)に六九七石八斗四升「ふせ村」がみえ、うち二〇〇石三斗六升九合出米とある。「ふせ村」は当地一帯を含むと考えられるが、その地域は確定しがたい。慶長一六年(一六一一)の荒川村の高は一千五六〇石余(布施市史)

荒川村
あらかわむら

面積:四六・九七平方キロ

郡の中央南部、秩父盆地の南西部に位置し、東は秩父市、西は大滝おおたき村、南は東京都西多摩郡奥多摩おくたま町、北は両神りようかみ村・小鹿野おがの町・秩父市に接する。北部を西から東に荒川が流れる。同川には町の西部で贄川にえがわ沢と谷津やつ川、中央で安谷あんや川、東部で浦山うらやま川が合流する。荒川に沿って国道一四〇号と、秩父鉄道(地内の三峰口駅が終点)が通る。南部は県境にある酉谷とりだに山から北西方と北東方へ延びる尾根に挟まれた急峻な山地で、集落はおもに北部の荒川河岸段丘上に集中している。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]若松町荒川郷あらかわごう

宿之浦しゆくのうら村の北、中通なかどおり島の南西にあり、南西は若松瀬戸に臨む。地内に荒川・ごうくび高仏こうぶつがあり、高仏は国高仏くにこうぶつという地名とともに、遣唐使の最澄に由来するという。東の山王さんのう山は延暦二三年(八〇四)第一六次遣唐使船で渡海する最澄が海上の安全を祈願し、その帰途に再び登り、山王権現を祀ったと伝える。中世は西浦辺青方にしうらべあおかたのうちで、永和三年(一三七七)三月一七日の青方重譲状案(青方文書)に「あらかわ」とみえ、重が次男の固に惣領の知行によって「もとくらをあらかわのあいのかわちより、しろいををさかい」に至るまでの田畠屋敷などを譲与している。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]富山町荒川

川上かわかみ村の伊予いよヶ岳(三三六・六メートル)を挟んだ東に位置し、南は平久里中へぐりなか村。白石しらいし峠を越えて北東平塚ひらつか(現鴨川市)に至る道がある。平久里五ヵ村の一で、元和検地前は平久里村のうち。正保郷帳に村名がみえ、田高二九一石余・畑高四二六石余、佐倉藩領。明暦元年(一六五五)の地詰帳控(高梨家文書)によると、上田二反余(一石三斗代)・中田一町余(一石一斗代)・下田一〇町一反余(九斗代)・新下田二町五反余(同上)、計一三町九反余・高一二八石余、上畑一町六反余(一石代、以下二斗下り)・中畑二町七反余・下畑二町六反余、新上畑七畝余(一石代、以下二斗下り)・新中畑四反余・新下畑四町六反余、山畑三反余(四斗代)・新山畑七町七反余(同上)、屋敷七反余(一石代)、計二一町余・高一二六石余。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]大垣市荒川町

大谷おおたに川左岸、静里しずさと輪中の西端に位置し、東は中曾根なかぞね村。村内を美濃路が通る。「美濃明細記」の土岐系図によれば、南北朝期の美濃国守護土岐頼遠の六男頼道は荒川七郎と称し、当地に住していた。慶長一五年(一六一〇)に当村と長松ながまつ村への徳永昌重代官補任状(野村弘氏所蔵文書)が出されており、江戸初期は高須藩領。慶長郷帳では村高一千五七石余。正保郷帳では幕府領、田高九一六石余・畑高一四〇石余。寛延三年(一七五〇)大垣藩預所となり、明和七年(一七七〇)六月再び幕府領となるが、翌閏六月大垣藩預所となり、幕末に至る(岐阜県史)

荒川村
あらかわむら

[現在地名]山田町荒川

石峠いしとうげ村の東に位置する。元和七年(一六二一)九月晦日の南部利直請取状(盛岡浜田文書)に「元和三年分之御物成」として米「三拾六駄八升壱合」とある。寛永二〇年(一六四三)には肝入又八らが共謀して偽銭を造り、捕らえられて妻子ともに荒川河原で斬首された。同二一年には跡目に前田与兵衛が任命されている(「雑書」など)。元禄七年(一六九四)津軽石つがるいし(現宮古市)瑞雲ずいうん寺において、このときの処刑者一五人の法要が行われ、寛政八年(一七九六)には八幡はちまん山山麓に供養塔が建てられた(瑞雲寺資料)

荒川村
あらかわむら

[現在地名]富山市荒川

常願寺川支流で大場おおば村領から発し、田中蓑浦たなかみのうら村領で赤江あかえ川に落合う荒川左岸にある。村名は川名に由来するという(新庄町史)。東は新庄新しんじようしん町、集落北側を北陸街道(巡見使道)が通る。「北越軍談」に弘治二年(一五五六)一〇月柿崎和泉守景家ら四千騎が「魚津の城より発兵して、水橋を馳過、荒川を渉て富山表」を攻めたとあるが、この場合の荒川は川名であろう。町新庄まちしんじよう村・向新庄むかいしんじよう村とともに新庄三箇しんじようさんがと称された(越中志徴)

荒川村
あらかわむら

[現在地名]青森市荒川

荒川の中流左岸、高田たかだ村・金浜かなはま村の北東にある。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡に高二五一・九六石、うち田方二三三・七六石とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳に高三五一・九石とある。同四年の検地帳には、高一五〇三・四三三石、うち田方一四二九・三二四石、畑方七四・一〇九石とある。田地一四三町五反七畝一四歩、畑と屋敷地合せて一四町四反二畝一二歩で、圧倒的に田地が多い。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]串木野市荒川

下名しもんみよう村の西に位置し、南は海に面する。中世には光富みつとみ名に含まれ、荒河・荒皮とも記された。薩摩国建久図田帳に薩摩郡公領内光富四九町の名主としてみえる荒河太郎種房が荒川の領主であったと推定される。種房は名前に種の字を含むことから大蔵氏一族と推測される。「三国名勝図会」は城之園しろのそのに荒川太郎の居城があったと記す。承久三年(一二二一)八月二一日の薩摩国庁下文(旧記雑録)に荒河とみえ、新田神社放生会雑事の流鏑馬役を負担している。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]七山村大字荒川

うき岳に連なる山嶺のたき山・徳正とくしよう山・上野うえの山・うら山などが福岡県との境にあり、これらの山嶺からとうげ川・徳正川が発し、急流となって荒川となり七山川に合する。字たいらに滝山滝の景勝地がある。七山郷の最高地で、谷間に、平野ひらの細川ほそかわ上荒川かみあらかわ宮の元みやのもとともよぶ)の集落がある。この村の荒川峠を越えて筑前へ、観音かんのん峠を経て佐賀郡への道が、古くから開かれていた。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]朽木村荒川

現朽木村の北東端にあり、朽木谷の入口、安曇あど川中流の大きく蛇行する地点、東は長尾ながお(現安曇川町)、南西は野尻のじり村。枝郷にはらがある。長禄元年(一四五七)一二月一三日のきやう小四郎太夫田地売券(朽木文書)に「あらかわ」とみえる。文明三年(一四七一)一二月二九日の荒川蔵米注文(同文書)によれば、領主朽木氏の領主蔵が村内にあった。永正一五年(一五一八)一二月吉日の朽木庄四二寸銭納帳(同文書)に「参貫弐百十三文此外参貫百五十文、椋川江越荒川」とある。同年九月日の棟別銭加増銭集帳(同文書)によれば、「荒川惣」は朽木庄軒数三四三のうち四一軒と最大で、五貫二〇〇文を負担。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]新発田市荒川

松岡まつおか村の南に位置し、東に岳岡がくこう山がある。五十公野いじみのから南下してきた荒川往来(山通り)は当地を経て笹岡ささおか(現北蒲原郡笹神村)に向かい、東南方真木まぎ山の谷間から流れ出る荒川川が街道と交差する。当地には戦国期の荒川氏の館があり、現荒川小学校を中心とした地に下館、東方に上館があり遺構が残る。上館東南方、荒川川扇状地を望む丘陵頂には荒川城跡がある。近世は初め村上藩領で正保国絵図で三六〇石余、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳では四三〇石八斗余。寛永一〇年(一六三三)新発田藩領松岡村との間に山境相論が生じている(「案詞帳」新発田市史資料)

荒川村
あらかわむら

[現在地名]小山市荒川

松沼まつぬま村の東、東は島田しまだ村、南は立木たつぎ村。応永一二年(一四〇五)一二月二七日付の旦那交名(米良文書)に「小山庄嶋田郷荒河侍従阿」とみえる。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)に小山領上郷分として「あら川」とみえ、伊勢役銭のうち三貫文を負担していた。慶長年中(一五九六―一六一五)小山藩領、元和五年(一六一九)下総古河藩領、正徳二年(一七一二)幕府領、享保三年(一七一八)下総関宿藩領、同五年同藩から旗本久世広籌に分知される。享保四年の村明細帳(稲葉友好文書)によれば田二八町一反余・畑八町四反余、家数二六(うち水呑三)、男八九・女六〇、道心・虚無僧ら四。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]中村市荒川

国見くにみ村の西方、中筋なかすじ川左岸の村で、大塔たいとう(三八三メートル)が北にそびえる。「土佐州郡志」は「東西十七町南北十町余、戸凡二十三」とし、「大越坂 宿茂郷・中村郷往還路也、坂西有石塚」と記す。往還路とは宿毛すくも街道のこと。

天正一八年(一五九〇)の畑庄国見荒川生川村地検帳によると荒川村の検地面積二五町五反余、屋敷数一八うち居屋敷一。屋敷のうちには地蔵寺・妙現寺・リヤウトウアンが含まれる。江戸時代には元禄郷帳によると本田高二五五石余、寛保郷帳では家数一八、人数六八、馬一〇、牛二。「西浦廻見日記」(安永七年)には「荒川村三百石余のうち生ノ川五拾石余也、荒川は壱ツ四歩七り、生ノ川ハ免四ツ九歩二もとぞ、棄地七十石余有、人数百八人ならでなし」とある。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]小坂町荒谷あらや 荒川

南流して小坂川に注ぐ荒川下流左岸に位置し、南は万谷まんや村。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出る。

近世初期の「鹿角郡由来記」に「荒川村 荒川備中領知 本名成田 館あり」とあり、中世後期には開村していた。集落東側台地上に中世館跡があり、連郭状平坦面と空堀などを残す。比高およそ三〇メートル、北から延びる舌状台地南端部に位置し、ほぼ南北に郭を連ねる。空堀は深さ三―五メートル、幅約一五メートルで郭を区切る。南側に館神八幡が現存。

荒川村
あらかわむら

[現在地名]志賀町荒川

琵琶湖畔にあり、南は木戸きど村。寛永石高帳に高二七七石余とあり、幕府領。慶安高辻帳では田方二一六石余・畑方一七石余・永荒四三石余。元禄郷帳に高二七〇石余とあり、三上藩領と旗本庄田領。天明石高帳では三上藩領二四五石余、庄田領二五石余。天保八年郷帳では三上藩領が幕府領となり、荒川村地先に高五石余、幕府領の荒川新田が記される。元禄六年(一六九三)木戸村と立会の「中谷山」の草刈時期に関して争い、両村とも夏には草刈をしないことを申合せている(大物共有文書)

荒川村
あらかわむら

[現在地名]山北町荒川

北西へ流れる荒川の両岸にあり、南北に出羽街道が通る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大川分あら河村 上」とみえ、本納一九石九斗四升五合・縄高五〇石九斗八升八合、家一一軒、「中村ヨリ七里」と記される。正保国絵図では高二〇〇石余。正徳二年(一七一二)の黒川俣組十一ケ村明細帳(板垣家文書)によれば田高八二石一斗余・畑屋敷高七石四斗余、家数一五、馬四、農間には宿場勤め、塩木伐りを行った。明治五年(一八七二)の駅逓取調并賃銭道法書法書上帳(山北村郷土史)によれば戸数一八・人数一三六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報