日本歴史地名大系 「山田下村」の解説 山田下村やまだしもむら 香川県:綾歌郡綾上町山田下村[現在地名]綾上町山田下羽床上(はゆかかみ)・牛川(うしかわ)両村の北に位置し、綾(あや)川北岸の法導寺(ほうどうじ)・大柳(おおやなぎ)・天神(てんじん)などの平野部集落とその北部の北山(きたやま)・平見(ひらみ)などの丘陵地集落からなる。古代の阿野(あや)郡山田郷(和名抄)の遺称地。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)の讃岐国公領分に「山田郷廊御方」とみえ、後宇多上皇から昭慶門院に譲与され、知行者は廊御方(亀山院女房で後宇多院異母兄弟兼良親王の母か)であった。また山田庄もあったが、庄域や山田郷との関連は不明。山田庄は建武四年(一三三七)八月一一日の中御門冬定譲状案(南部文書)にみえ、中御門家領である庄内水田名が冬定から宗泰に譲られている。南北朝時代伊賀高光は細川頼之方に属し、白峰(しろみね)山麓高屋合戦で細川清氏を討ち、頼之から賞として当地を賜り、伊賀(いが)城を築いたという(讃州細川記)。城(しろ)山(一〇五メートル)とよばれる小山の中腹に城山(しろやま)神社があるが、境内を含め上下に四段の平坦地が削平されており、同城跡とされる。 山田下村やまだしもむら 大阪府:吹田市山田下村[現在地名]吹田市山田市場(やまだいちば)・長野西(ながのにし)・長野東(ながのひがし)・尺谷(しやくたに)・山田南(やまだみなみ)・岸部北(きしべきた)五丁目・山田西(やまだにし)一―二丁目・佐竹台(さたけだい)五―六丁目・高野台(たかのだい)五丁目・山田東(やまだひがし)一―二丁目・樫切山(かしきりやま)・千里丘(せんりおか)〈西(にし)・上(かみ)・下(しも)・北(きた)〉・新芦屋上(しんあしやかみ)・新芦屋下(しんあしやしも)・清水(しみず)・青葉丘南(あおばおかみなみ)・青葉丘北(あおばおかきた)・千里万博公園(せんりばんぱくこうえん)など山田八ヵ村のうち東端(現吹田市の東端)に位置し、単に下村ともいう。村は千里丘陵の南東端にあたり、東部は七〇メートル前後の起伏ある地形であるが、西部には山田川が流れ、川に沿って南北に緩やかに傾斜した地形となっている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by