贄川村(読み)にえがわむら

日本歴史地名大系 「贄川村」の解説

贄川村
にえがわむら

[現在地名]荒川村贄川

現荒川村の北西端、荒川上流の左岸に位置し、南は荒川を境に白久しろく村、北西は猪狩いかり山の峰を境に小森こもり(現両神村)。村の北部、字大指おおさすと同古池ふるいけから流れ出る贄川沢が村の中央を南下し、荒川に注ぐ。古くは小野原おのばら村と一村であったという。秩父甲州往還が白久村から荒川越で当村に入り、同川沿いに西進して三峰みつみね山方面へと向かう。小名まちは村の南部、秩父甲州往還から贄川沢沿いに北上して小鹿野おがの(現小鹿野町)へ向かう道が分岐する辺りにある。贄川町と通称されて、秩父甲州往還沿いに町場が形成され、高札場も設けられていた。「遊歴雑記」によると、秩父甲州往還は当地より西は片鄙な地となり、二里余離れた大輪おおわ(現大滝村)川側かわばたまでは休憩する所もなかった。このため小名町の東西二町余の町並には食店・旅籠・商家などが立並んでいた。また御林山のある新大滝しんおおたき村・古大滝ふるおおたき(現大滝村)の入口にあたり、古くより切〆場として荒川を川下げする伐出木品改方を勤める村でもあった(文政八年「書付」二宮家文書)

永禄五年(一五六二)一〇月一〇日の乙千代判物(逸見文書)によると、逸見蔵人に対して当地宝雲ほううん(現在は白久にある)二貫文などが前年以来の戦功を賞して与えられており、宝雲寺には「にへ川有之」との注がある。天正一八年(一五九〇)二月一二日、北条氏邦は大浜弥八郎に対して「贄川之内」新井縫殿助分一四貫文、同喜兵衛分八貫文の計二二貫文を与えている(「北条氏邦印判状写」武州文書)

贄川村
にえかわむら

[現在地名]楢川村大字贄川

木曾最北端の村で、宿場町の贄川(上町かんまち中町なかまち下町しもまち)を中心に、南へ桃岡ももおか横地よこじ、北へ中畑なかばた若神子わかみこ片平かたひら桜沢さくらさわなどの集落が中山道沿いに散在している。北端桜沢からは、桑崎くわざきを経て牛首うしくび峠を越えて伊那小野おの(現上伊那郡辰野町小野)へ通ずる桜沢往還が分岐している。

木曾氏の北方の押えとして重視された所で、暦応元年(一三三八)木曾家村が贄川に関を設け、贄川氏の先祖となった四子家光(岐蘇古今沿革志)に、木曾境の桜沢山の砦を守らせている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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