大日村(読み)だいにちむら

日本歴史地名大系 「大日村」の解説

大日村
だいにちむら

[現在地名]袋井市宇刈うがり

周知すち郡に所属。宇刈丘陵の谷間、宇刈川の上流域に位置する。南はなか村。村名はすぎ池の傍らに大日堂があったことによるという(掛川誌稿)。永禄一二年(一五六九)一〇月四日の知行書立写(松平乗承所蔵古文書)に「大日村」とみえ、岩本道興分であった当村一四軒ほかが、松平真乗に渡付されている。江戸時代の領主の変遷は一色いつしき村に同じ。寛永一四年(一六三七)の大日村地詰帳(国誌編纂調)では高四四一石余・反別四〇町余。正保郷帳では田方三五五石余・畑方三八石余、天王(現宇刈神社)領七石八斗・長慶寺(現廃寺)領三石。


大日村
だいにちむら

[現在地名]武雄市橘町たちばなまち大日

武雄盆地の南に位置し、杵島きしま山南部の西麓から潮見しおみ川の沿岸に広がる。

奈良時代の官道はこの村の杵島山西麓を南に向かい、塩田(現藤津郡塩田町)に至っていたと思われる。文明一四年(一四八二)一二月三日の田地居屋敷坪付注文(橘中村家文書)に「大日めん一所しきち」とある。

縄文時代の遺物散布地があり、弥生時代の甕棺群集墓がある。古墳時代の箱式石棺と小円墳は群をなしている。破壊された古墳の腰石と考えられる巨石に線刻文様があり、装飾古墳であったと思われるものもある。

この地域は平安時代には蓮華王れんげおう院領長島ながしま庄であり、鎌倉時代は惣地頭潮見城主橘薩摩氏の所領となったが、のちは橘薩摩氏の分家牛島氏に分与されて牛島領となった。


大日村
だいにちむら

[現在地名]吉田町大幡おおはた

与五郎よごろう新田の東に位置し、大井川の右岸に立地する。北は八幡島やはたじま新田。永禄一二年(一五六九)一〇月四日の知行書立写(松平乗承所蔵古文書)によると、松平真乗に引渡される屋敷二一間のうち大日村に一四間があった。文禄二年検地高目録では高四七〇石余。その後再三にわたる洪水で流失した。正保郷帳では田方一三三石余・畑方六石余、幕府領、ほかに大知だいち(現曹洞宗大智寺)領二石五斗・鏡満けいまん(現八幡神社に合祀)領二石がある。


大日村
だいにちむら

[現在地名]滑川市大日

早月はやつき川が形成した隆起扇状地(室山野台地)の扇頂部付近に位置し、北西は室山むろやま村。村名の由来は佐々成政の家臣が豊臣秀吉に攻められ立山連峰支脈の大日岳山麓に隠遁し、その子孫が当地を開墾したことにちなむと伝える(東加積村誌)


大日村
だいにちむら

[現在地名]上越市大日

上島かみじま新田の東に位置する。正保国絵図には村名しかみえないが、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳によれば高一一六石二斗余。天和三年郷帳によれば高二二二石二斗余、うち野高二石四斗、ほかに新田高二〇石四斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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