尾添村(読み)おぞうむら

日本歴史地名大系 「尾添村」の解説

尾添村
おぞうむら

[現在地名]尾口村尾添

荒谷あらたに村の東に位置し、尾副とも記す。「おうぞ」ともいう。尾添川左岸の三段の段丘面にまたがって集落を形成し、南東部には薬師やくし(二〇二三・五メートル)四塚よつづか(二五一九・五メートル)などの高峰が連なる。宝永三年(一七〇六)の吉野村甚七書上(改作所旧記)に、北の中宮ちゆうぐう(現吉野谷村)との境をなす尾添川は「中の川」と記される。天文一三年(一五四四)六月五日の後奈良天皇綸旨案(密谷文書)に「山内庄尾副村」とみえ、白山禅頂の諸堂造営に関する杣取権を当村に認めると白山惣長吏に伝えている。これは天文期の牛頭うしくび風嵐かざらし(現白峰村)との白山争論に起因する(白峰村の→牛頭。なお当村勝訴の背景には朝廷幕府本願寺と関係の深い山科言継のもとに、尾添の与七郎・四郎右衛門らと白山長吏の白光院澄辰による盛んな訴訟工作があった(「言継卿記」天文一三―一四年条)

正保郷帳では能美のみ郡に所属し、高一五一石余、畑八町八反余、免四ツ。ただし石川郡にも村名がみえ、高五四石余、畑三町六反余、免二ツ二歩とあり、中宮村での出作分と考えられる。寛文八年(一六六八)加賀藩領から幕府直轄領となるが、当村と瀬戸せと村の出作民は同藩領への移住を希望。藩の許可を得て能登国鳳至ふげし山是清やまこれきよ村・鑓川やりかわ(現門前町)へ移住し、当村からは山是清村に家数二二・人数九一、鑓川村に家数九・人数六五が移転した(「白山争論記」森田文庫)。元禄三年(一六九〇)の白山麓十八ヶ村鉄砲改書上帳(山口文書)による高一五一石余。同一一年の十八ヶ村高小物成帳(斎藤文書)では免三ツ一歩四厘六毛、小物成は夫銀六三匁余。宝暦三年(一七五三)村入用帳(密谷文書)では家数八一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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