中宮村(読み)なかみやむら

日本歴史地名大系 「中宮村」の解説

中宮村
なかみやむら

[現在地名]枚方市中宮〈東之ひがしの町・西之にしの町・山戸やまと町・きた町・ほん町・大池おおいけ一―四丁目〉・堂山東どうやまひがし町・堂山どうやま一―三丁目・都丘みやこがおか町・松丘まつがおか町・池之宮いけのみや一―四丁目・禁野本きんやほん町一丁目・上野うえの三丁目・新之栄しんのえ町・須山すやま町・宮之阪みやのさか二―四丁目・星丘ほしがおか二丁目・同四丁目・出屋敷西でやしきにし町一丁目

交野かたの郡に属し、交野台地とよばれる洪積層の段丘に位置する。北は甲斐田かいだ村、東は津田つだ村・春日かすが村、南西は禁野村。「河内志」に「中宮属邑二」とみえる枝郷は、堂山・池の宮をさす。村名の由来には諸説ある。「三代実録」貞観四年(八六二)三月一四日条に「河内国交野郡古荒田一町六反、(中略)中宮職」とみえるが、この中宮職にあてられた古荒田が当地にあたるためとする説、「続日本紀」延暦二年(七八三)一〇月一四日条、同一六日条にみえる桓武天皇の交野行幸に際して行宮が置かれたことによるとする説、天体崇拝思想により、天野あまの川の北に位置する当村が、北斗星の天の中宮に相当するためという説などがある。

中宮村
ちゆうぐうむら

[現在地名]吉野谷村中宮

木滑きなめり村の東に位置し、集落は高倉たかくら(九二二・二メートル)の南東、手取川支流の尾添おぞう川北岸の河岸段丘上にある。対岸は幕府直轄領の能美のみ郡尾添村(現尾口村)。東のおいずるヶ岳(一八四一・四メートル)は、加賀と飛騨・越中の国境をなし、尾添川上流の山中には中宮温泉がある。「加賀志徴」の引く郷村名義抄は、村名由来を「此村往古宮三社御座候而、中宮与申」と記す。慶長四年(一五九九)の前田利家知行宛行状(県立歴史博物館蔵)に村名がみえ、知行高一九二俵。正保郷帳では高三〇四石余、田方七反余・畑方一九町五反余。

中宮村
なかみやむら

[現在地名]巣南町中宮

北脇きたわき村の西に位置し、揖斐いび川東岸の平坦低地に立地し、古橋ふるはし輪中に属する。中ノ宮村とも書いた。もと呂久ろく村の枝郷で(新撰美濃志)、慶長郷帳・元和二年(一六一六)の村高領知改帳では揖斐藩領の呂久村一千四〇六石余の内。同村は寛永一二年(一六三五)大垣藩領となったのち、当村を分離独立させ、以降同藩領。正保郷帳に村名がみえ田二〇五石余・畑一五一石余。呂久村の有力者馬淵氏によって開発された。村名は安八あんぱち神戸ごうど(現神戸町)の善学院住持が、安八郡にはすでにかみノ宮・しもノ宮の地名があったので「中ノ宮」という、三諦の理に合い、かつ天台宗の中道第一義を活用した名を馬淵氏に進言して決まったという(馬淵文書)

中宮村
なかみやむら

[現在地名]中央区山本通やまもとどおり四―五丁目・諏訪山町すわやまちよう再度筋町ふたたびすじちよう

花熊はなくま村の北西六甲ろつこう山地再度山南麓に位置する。慶長国絵図にはみえず、元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳に中宮とみえ高三五石、幕府領。同年七月尼崎藩領(「大垣藩地方雑記」岐阜県立図書館蔵)。宝永八年(一七一一)より幕府領(兵庫史学)。村高は正保郷帳以下の郷帳類でも三五石。元禄三年(一六九〇)の矢田部郡内家数人数等書上帳(西宮神社旧蔵文書)によれば家数六・人数三八、諏訪大明神(現諏訪神社)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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