日本歴史地名大系 「尾谷村」の解説 尾谷村おたにむら 岡山県:英田郡英田町尾谷村[現在地名]英田町尾谷真木山(まきさん)村・神田(こうだ)村の北、吉野(よしの)川左岸に立地する。対岸は倉敷往来筋の青野(あおの)村・鳥淵(とりぶち)村、北は海田(かいた)村(現美作町)。正保郷帳に村名がみえ、田四一石余・畑一一〇石。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高三七石余・開高四〇石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は福本(ふくもと)村と同様。「東作誌」では毛付高一九六石余、家数一二〇、男三〇九・女二三六。庄屋として水井次右衛門・同伝治の二人の名がみえる。枝郷として火打谷(ひうちだに)・鍋山(なべやま)・下尾原があり、火打谷・鍋山には溜池がある。山林(百姓持)は九一ヵ所で反別四町九反余。 尾谷村おたにむら 岡山県:赤磐郡山陽町尾谷村[現在地名]山陽町尾谷・桜(さくら)が丘西(おかにし)一―一〇丁目砂(すな)川の左岸、津崎(つざき)村の南にあり、条里制に関連すると考えられる四反田などの地名がある。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)に鳥取(ととり)庄尾谷村とみえる。寛永備前国絵図では高五八〇石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高六五四石余、貞享元年の荒などを引いた残高六一四石余。元禄一三年(一七〇〇)には枝村岡久保(おかくぼ)があり(備前記)、享保六年(一七二一)には田畠三六町余、家数五二・人数三〇一、池四(備陽記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by