山中新十郎(読み)やまなかしんじゅうろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山中新十郎」の意味・わかりやすい解説

山中新十郎
やまなかしんじゅうろう
(1818―1877)

明治維新期の豪商出羽(でわ)佐竹領平鹿(ひらか)郡増田村(秋田県横手(よこて)市)の在方商人播磨(はりま)屋長五郎の四男。幼名易吉。23歳(18歳ともいう)のとき殖産興業策を藩校明徳館に建白。1841年(天保12)城下久保田秋田市大町呉服太物(ごふくふともの)商として自立、山中屋新十郎と称した。その卓識と努力が認められ、藩の諸用達を兼ねるに至った。この間も再々殖産興業策を呈し、ついに55年(安政2)藩をして絹、木綿などの陸路移入禁止、さらに船手木綿の移入制限策をとらしめるとともに、自ら縞(しま)木綿の生産を開始し、幕末には本店工場と城下九か所の機場(はたば)からなるマニュファクチュア形態の山新(やましん)縞木綿生産を築き上げた。また戊辰(ぼしん)戦争では秋田藩を新政府側につかしめるために尽力し、役中は大小荷駄(にだ)方支配人として兵粮(ひょうろう)、弾薬の調達運搬にもあたった。

[半田市太郎]

『橘仁太郎編『勤王商傑 山中新十郎翁伝』(1916・山中駒蔵)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山中新十郎」の解説

山中新十郎 やまなか-しんじゅうろう

1818-1877 江戸後期-明治時代の商人。
文政元年12月生まれ。出羽(でわ)久保田(秋田市)で呉服・太物商をひらく。久保田藩御用達となり,殖産興業策を建白。みずから工場制手工業により縞(しま)木綿を生産,商品は山新木綿の名で知られた。明治10年9月9日死去。60歳。名は信広。

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