朝日日本歴史人物事典 「山中新十郎」の解説
山中新十郎
生年:文政1.12(1818)
幕末維新期の商人。羽後国(秋田県)平鹿郡増田村に,山中長五郎の4男として生まれる。幼名は易吉,のちに信広と称す。分家山中長之助のもとへ,さらに久保田(秋田)城下の商人茜屋に養子として入るがいずれも出奔し,天保12(1841)年,城下の大町で呉服仲買業を開業,山中屋と号した。嘉永5(1852)年に町処用達,郡方織物用達に任ぜられ,これ以降,久保田藩の殖産政策に関与することとなった。久保田藩は安政2(1855)年に領内への絹,縞木綿の陸路移入を禁止し,また,文久1(1861)年には城下に機座を設けているが,これら一連の産業保護奨励策は,山中の建白に基づくものだといわれている。山中自身,綿布の生産,販売活動に従事し,その取り扱い商品は「山新木綿」と呼ばれていた。領内鉱山の総蔵元も務めており,慶応2(1866)年には苗字帯刀を許されている。維新後は織物関連の取引をなすかたわら,石油発掘や第四十八国立銀行の設立にもかかわった。幕末維新の変革期に台頭した新興商人のひとりといえよう。<参考文献>橘仁太郎『勤王商傑・山中新十郎翁伝』
(谷本雅之)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報