山川湊(読み)やまがわみなと

日本歴史地名大系 「山川湊」の解説

山川湊
やまがわみなと

[現在地名]山川町入船町・金生町・新生町など

中世からの湊として知られ、江戸時代には鹿児島藩の外港として栄えた。湊は火口港で、カルデラ火口壁の東部が崩壊・沈水したあとに南から北に向かって砂嘴が延び、天然の良港となった。「三国名勝図会」によると、山川村(福元村)鳴川なりかわ村にまたがり、「天然の海湾にて、其周廻凡一里、港口東に向ひ、濶さ凡八町、港底深さ数十尋なり、港の総状瓢に似たり、港口は瓢の頭にて、港内は瓢の腹の如し、故に大船巨舶も此港に泊繋する時は、如何なる大風といへども安穏にして、四方の風に至ても、畏まることなく、且薩隅二州の間、海水南より北に入ること数十里の裏海なるに、此港其海口にあるなれば、舟船の出入停泊甚便利なり、(中略)当邑には艚戸豪賈多くして、人煙繁庶なり、唐土及び朝鮮等の漂舶、当邑の近地に来る時も、此港に引入て後、諸事を調へ長崎へ護送せり」と記される。

〔中世〕

山河とも記される。建保七年(一二一九)二月三日の平某置文案(禰寝文書)によると、平某(揖宿郡司平三忠季)は「いてハひしりはう」(出羽聖房)に「やまかは」を譲っているが、両者の関係は未詳。文暦二年(一二三五)八月二八日の関東下知状(指宿文書)によると、揖宿郡地頭島津忠綱(忠久次男)の「梶取」として同郡の「山河住人字綾三郎延元男」がおり、山川は地頭年貢の積出港となっていたと考えられる。鎌倉後期に揖宿郡地頭職が大隅国守護領として北条氏の所職となっていたのも、同国守護が山川を外港として利用するためであったとみられる。南北朝内乱期に入り、興国三年(一三四二)五月一日、征西将軍懐良親王が「薩州津」に上陸しているが(五月八日「氏名未詳令旨副状写」阿蘇文書)、これは山川への上陸であったとみられる。貞和二年(一三四六)二月一二日に北朝方の島津貞久(道鑑)は、南朝方の中院法印および肝付兼重が鹿児島攻撃のために「山河津」を発したと報じており(「島津道鑑書状」比志島文書)、山川が南朝方水軍の基地となっていたことがうかがえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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