日本歴史地名大系 「福元村」の解説 福元村ふくもとむら 鹿児島県:揖宿郡山川町福元村[現在地名]山川町福元・新栄町(しんえいちよう)・入船町(いりふねちよう)・金生町(きんせいちよう)・山下町(やましたちよう)・新生町(しんせいちよう)・潮見町(しおみちよう)・朝日町(あさひちよう)揖宿郡に所属。現山川町の東端に位置し、西は鳴川(なりかわ)村、南から東は海に臨む。北東部は岬状に突き出し、対岸の鳴川村との間の海湾(陥没カルデラ)に鹿児島藩の外港である山川湊があり、湊町も形成されていた(三国名勝図会)。初め山川村と称したが、明暦三年(一六五七)福元村と改称(三州御治世要覧)。ただしその後も郷帳などでは山川村と記される。 福元村ふくもとむら 鹿児島県:大島郡大和村福元村[現在地名]大和村名音(なおん)名音(のん)村の南東に位置する。南に湯湾(ゆわん)岳が広がる。屋喜内(やきうち)間切の大和浜(やまとはま)方のうち。龍郷(たじご)方(現龍郷町)の田畑佐文仁が開発にかかわった地の一つで、享保五年(一七二〇)鹿児島藩の命で湯湾岳の北側中腹の深山(みやま)平(深山塔)の開墾にあたり、小川(こご)岳から谷川水を引くため隧道を開削して用水路を設けたが、水位が低く灌漑に失敗、この開発は成功をみなかったらしい(奄美大島史)。佐文仁はこの間の犠牲者の霊を慰めるために祠を建てている。また開墾の折に一基の古牌を発掘したとされ(のち洪水で流失したという)、八世紀に建立された遣唐使船の牌という説がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by