山本礼三郎(読み)ヤマモト レイザブロウ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「山本礼三郎」の解説

山本 礼三郎
ヤマモト レイザブロウ


職業
俳優

本名
山本 博吉

別名
別名=小沢 美羅二,市川 寿三郎

生年月日
明治35年 9月15日

出身地
東京市 芝区白金志田町(東京都 港区)

学歴
中学〔大正7年〕中退

経歴
新旧劇団を経験後、大正11年大正活映の「紅草紙」で映画デビュー。翌年マキノ御室撮影所へ入社。敵役として注目される。昭和3年マキノを退社し、山本プロダクションをつくり聯盟に参加するが、聯盟はつぶれ河合映画へ。たて続けに主演スターとして「近藤勇」「清川八郎」などに。4年東亜キネマ・5年日活太秦と転じる。日活で伊藤大輔監督に出会い、個性的な性格俳優として進歩を見せた。11年日活多摩川へ移籍内田吐夢人生劇場」の吉良常役は代表作のひとつ。17年からは一時映画界を離れ劇団を組識するが、戦後再びフリーでカムバック。凄味のある総会屋や残忍なやくざなどを演じた。26年脊髄カリエスにかかった後もテレビ・映画出演を続けたが、39年「駿河遊侠伝・破れ鉄火」が最後の出演となった。

没年月日
昭和39年 9月11日 (1964年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「山本礼三郎」の解説

山本 礼三郎
ヤマモト レイザブロウ

昭和期の俳優



生年
明治35(1902)年9月15日

没年
昭和39(1964)年9月11日

出身地
東京市芝区白金志田町

本名
山本 博吉

別名
別名=小沢 美羅二,市川 寿三郎

学歴〔年〕
中学〔大正7年〕中退

経歴
新旧劇団を経験後、大正11年大正活映の「紅草紙」で映画デビュー。翌年マキノ御室撮影所へ入社。敵役として注目される。昭和3年マキノを退社し、山本プロダクションをつくり聯盟に参加するが、聯盟はつぶれ河合映画へ。たて続けに主演スターとして「近藤勇」「清川八郎」などに。4年東亜キネマ・5年日活太秦と転じる。日活で伊藤大輔監督に出会い、個性的な性格俳優として進歩を見せた。11年日活多摩川へ移籍、内田吐夢「人生劇場」の吉良常役は代表作のひとつ。17年からは一時映画界を離れ劇団を組識するが、戦後再びフリーでカムバック。凄味のある総会屋や残忍なやくざなどを演じた。26年脊髄カリエスにかかった後もテレビ・映画出演を続けたが、39年「駿河遊俠伝・破れ鉄火」が最後の出演となった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山本礼三郎」の解説

山本礼三郎 やまもと-れいざぶろう

1902-1964 昭和時代映画俳優
明治35年9月15日生まれ。山本芳翠次男。マキノプロなどをへて昭和5年日活にはいり,「侍ニッポン」などで個性派ぶりを発揮。「人生劇場」の吉良常(きらつね)はあたり役。戦後は「酔いどれ天使」「あにいもうと」などに出演した。昭和39年9月11日死去。61歳。東京出身。本名は博吉。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の山本礼三郎の言及

【日本映画】より

…第2次寛プロ1931‐37)(15)山口俊雄(1928‐28)(16)月形竜之介(1928‐29/1931‐32。奈良生駒山ろく)(17)谷崎十郎(1928‐28)(18)山本礼三郎(1928‐28)(19)市川百々之助(もものすけ)(1930‐30)(20)沢村宗之助(1932‐33)(21)入江たか子(1932‐37。京都双ヶ丘)(22)高田稔(1934‐36) 以上が戦前のスター・プロで,寿命の長短ははなはだしいが,日本映画の大きな側面を担い,なかでも片岡千恵蔵プロダクションは稲垣浩,伊丹万作,山中貞雄ら俊才の作品を数多く世に出して,一時代を画した。…

※「山本礼三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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